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加藤学習塾
【岡山県岡山市の進学塾】

[2012年10月14日]

政治の都合で教育を荒らすな!

政治の都合で教育を荒らすな!


泉佐野市、学校別成績をHPで公表 大阪府学力テスト 抜粋

(2012年10月2日 朝日新聞)


○大阪府が小中学生の学力向上をめざして独自に実施している共通学力テストについて、大阪府泉佐野市の千代松大耕市長は2日、市内の学校別の成績を市のホームページ(HP)で公表した。府教委は「学校や地域の序列化につながる」として公表しないよう求めている。共通テストの学校別成績を一覧できる形で公表するのは全国的にも極めて異例。

○テストは小6(国語と算数)と中3(国語と数学、英語)が対象。市長が公表したのは小学校12校と中学校5校の科目別平均正答率で、小学校1校については児童数が極端に少ないことを理由に公表しなかった。

○千代松市長は公表の理由を「学力が低いと見られていた学校が好成績をとっている。各校に対する市民の誤った認識を正し、保護者や地域が課題を共有して学力向上に役立てるため」とする。法律上、教育行政に関する決定権は教育委員会にあるが「市長は教育環境の整備などに予算配分しており、その成果を公表するのは市長の責務だ」と主張。「全科目で府の平均を下回っているので、何とか学力を上向かせたい」(省略)


私のコメント


◇学力競争を加速されているのは、政治的な思惑です。日本は、その昔、世界でも有数の高学力大国でしたが、1980年代に、先進国との間に貿易摩擦が起こり、アメリカ・イギリスが中心となって、日本の貿易黒字を減らそうと外的な圧力をかけました。


◇レーガン・サッチャー両氏が、中曽根首相(当時)に貿易摩擦の解消を図り、国力の元である教育水準が課題となり、また国内でも創造性や応用力の乏しさが課題となりました(そう私は状況判断しました)。


◇その結果、ゆとり教育の原型が用意されました。新学力観なるものは、その産物だといって良いです。学習時間が減り、教育内容が易しくなり、学習する意欲や態度が重要となり、学習した結果であるテストがそれほど重要視されなくなって、義務教育の基本的な学力は、どんどんと崩壊していったのです。


◇学習圧力が少なくなれば、子どもたちは、必然的に勉強しなくなり、教育に関心を持っている高所得層の保護者だけが、子どもの勉強に関心を持ち、自分の子どもの学力保証を自衛的に行っていったのです。


◇だから、この時期から、どんどん子どもたちの学力の二極化がはっきりしてくるのです。


◇1990年代後半には、小学校で学力低下が顕著になり、義務教育の基盤が完全に崩壊するようになっていきました。ここで登場するのが、ゆとり教育を旗頭にした教育改革です。


◇この改革案は、ミスター文部省と言われた寺脇研氏の広報活動のお蔭で、日本全国に認知されるところになり、「全員が100点を取れる」改革として、推進されます。


◇しかし、この欺瞞性に誰もが気が付いて、学力低下問題が起こるのです。
この問題が、1999年から2002年にかけてです。学力低下問題を発端にして、日本は、脱学力からまた学力偏重にガラッと舵を切ることになります。


◇学力問題は、2002年以降は、聖域ではなく、当然教育の中で語られてしかるべき課題になりました。そして、学力にまつわる競争をどんどん推進していくことになるのです。そして、そういう改革を掲げていく政治家が投票数を伸ばすことになるのです。


◇教育を私企業の論理と相同的に語って、誰でもわかりやすいように、耳に心地が良いように宣伝してしまうのです。しかし、教育は、短期決戦型の競争ではありません。子どもを大人にしていく行為なのです。だから、競争原理が、全面的に通用しない、特殊な側面があるものなのです。


◇今回の記事を考えるのなら、学校別のテスト結果は、教育の質を云々するなら、教師間に開示して、叱咤激励をするか、校長に開示し、担当の学校の学力をどう上げていくのか考えさせればよい話です。


◇公表する理由なんて、いくらでも考えられるでしょうが、それが、教育にどういう効果を生むのか、政治家たちは、考えたことがないのではないかと思います。政治家の皆さん、教育で人気を取ろうとする姑息なことは、もうそろそろやめた方が良いですし、我々市民も、しっかりと政治家のロジックを見極めた方がいいです。


◇教育を政治の材料にしてはいけないと思いますし、政治家の皆さんも教育についてもっと考えた方が、良いと思います。