[2015年8月2日]
見えにくい成育に挑む
1.はじめに〜可視化することで次なる可能性が⾒えてくる〜
可視化することで改めてその大きさに驚かされることがあります。ここに用意したものは、十分な睡眠時間を除いた生活時間の中で、学校の授業や企業研修などのフォーマルな学びに費やす時間(黒色)と、それ以外(オレンジ色)を可視化したものです。
オレンジ色の中には食事や入浴や娯楽などの時間も含まれてはいるものの、自分の意志でコントロール可能な時間がいかに大きいかに目を奪われます。先々、医療技術の進化によりオレンジ色の生涯時間はより拡大していくでしょう。このチャートを見ているだけでも、「子どもの成育のためにもっとできることはないか?」「年齢に関係なく学びつづけることの価値を顕在化できないか?」など、問題意識が次々と芽を出し始めます。教育総合研究所創設3年目を迎えたいま、改めて「これからの学びをどう捉えなおすべきか」「これからの研究テーマをどう設定し、どう深めていくべきか」という、次なる研究価値の創出にむけた考えを論じてみたいと思います。
2.子どものもつ可能性を信じることを貫きます
子どもは未来を創っていく最もたいせつな存在です。先生・保護者・地域の大人が子どものもつ力や可能性を信じ、それぞれが学校・家庭・地域で相互協力的にそれらを引き出して、「分かる喜び」「できる実感」「学ぶ楽しさ」に導く働きかけをいかに具現していくか。大人からの、何を/どうやれば/ほらっできたといった適切なナビゲーションやアドバイスが必要なのです。最も難しく、でもあったらうれしいものが、「意欲」「主体性」などの見えにくい力を引き出すナビゲーションやアドバイスではないでしょうか。伸びない子どもはいませんし、伸びたくない子どももいません。学ぶことのうれしさを経験し、再現し、拡張していくことができる人を増やすことができれば、学びと育ちの景色を大きく塗り替えることができる気がするのです。
3.「⾒えにくい⼒の⾒える化」に努めてゆきます
教育再生実行会議、中央教育審議会、および各専門部会等で議論されている教育改革は、先述の図1にある知識伝達型の学びの時間(黒色)の改革論です。とりわけ、2014 年11 月20 日、中教審に文部科学大臣が諮問した「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」は、大きな教育政策のビジョン転換を示唆するものでした。
?(子どもには)変化を乗り越え、伝統や文化に立脚し、高い志や意欲をもつ自立した人間として、他者と協働しながら価値の創造に挑み、未来を切り開いていく力を身に付けること。
?(指導者には)「何を教えるか」という知識の質や量の改善、「どのように学ぶか」という、学びの質や深まりを重視することが必要であり、課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習(いわゆるアクティブ・ラーニング)や、そのための指導の方法等を充実させていく。
いままでの教育は、先生:児童・生徒=1:40の知識伝達型の学びを中心に行うことによって、より多くの知識を正確に記憶し、速く正解を導き出すことができる力を重視してきました。そうした力は数値化がしやすいため、入試を含めた子どもの学力を客観的に評価しやすいという面もありました。一方、今回中教審に諮問されたビジョンを実践し、成果につなげていくためのポイントは、従来の見える力(教科学力など)に加えて、見えにくい力をどんな指標と方法論で測定し、可視化するかにあると考えます。見えにくい力とは、国立教育政策研究所のまとめた、21 世紀型能力の整理にある「思考力・実践力」にあたるものです。
「見えにくい力の可視化」が実現できないと、従来型学校教育システムでの経験知や価値観を超えることは難しく、かつての「総合的な学習の時間」の創設期のように、「どうやるか」が流行りもののように先行し、後にその成否を論ずることができないことになりえるのです。
アクティブ・ラーニングによって身に付く力を事例として述べます。先生の視点で、「クラスはみんな、それぞれ違う意見や考えを認め合えるようになった」だけでなく、「課題に対して互いに違う考えを出し合って、対話しながら考えることを通して、一人ひとりが自分なりの答えに近づき、それによってさらに次の疑問や問いを見出すことが楽しい、という学びができるようになった」を、めざす姿とします。この姿を構造化し、一つひとつの構成要素の目標&評価をルーブリック化することがまず必要ですが、それだけでは実際の教育現場の指導や家庭での子どもの関わりを変えることはできません。そこで、当研究所は子どもに寄り添いながら、見えにくい力を可視化するという道を選択したのです。
4.おわりに
紀元前、人は自分よりも大きく強い生き物から身を守り、倒し、自らの命に換えてきました。一寸先が予見できない日々の中で、互いに学び合い、助け合って、今日よりもいい明日を迎えることに努めていました。翻って現代。核家族化、個人情報保護法、デジタルデバイスの進化と拡大などの環境変化と、近未来がある程度予見可能な生活変化は、「ひとり(孤独)」であっても比較的安全で、むしろそうあることのほうが居心地良く、ストレスのない日常生活として一般化してきているように感じます。平穏な日常は、人びとが命をつなぐ努力、即ち、学び合いや助け合いを必ずしも必要としない日々を形作ってきたのかもしれません。
しかし、これから先の未来はどうか。環境変化は待ってくれません。わが国の少子高齢化の加速による労働生産人口の減少は、産業全体の生産性低下や地域格差(特に地方の衰退)という影をはっきりと落とし始めました。さらに、世界レベルで進展する産業・経済のグローバル化、製造・物流・通信など技術のデジタル化などにより、地球のサイズは年々小さくなっています。いまだ見ぬ課題の出現スピードも、より加速するでしょう。