[2014年2月7日]
毎日さむい日が続きますね。寒さは厳しいですが、雪が積もらないのでありがたいです。ニュースを見ると上越や中越の山沿いの方は雪が積もっているようで同じ県内でもかなり違うものですね。インフルエンザやノロウィルスも流行しているようです。まだまだ寒い日が続くようなので体調管理をしっかりして過ごしたいものです。
先日ふと思ったのですが、
「自分は子どもの頃、おいしいものを食べなかったから自分の子どももおいしいものを食べさせなくてよい」
という言葉はあまり聞かないなと。どちらかというと、
「自分の子どもの頃はさておき、自分の子どもにはおいしいものや栄養のあるものをたくさん食べさせたい」
と思う方が多いのではないでしょうか?
しかし、勉強のことになると、
「自分はそんなに勉強しなかったから、自分の子どもも普通ぐらいできれば良い」
という言葉をよく聞きます。この場合は「普通」とはどのぐらいのレベルのことなのか?と思うのですが、基本的には親と同じぐらいのことを指すことが多いようです。
食べ物は体の栄養、勉強は頭の栄養です。どちらも子どもが成長していくのには欠かせないものだと思います。食べ物の場合は各家庭の生活状況に応じた食生活になるのは当然のことですし、贅沢な食事ばかりが良いわけではありません。その家ごとに出来るだけのことで良いと思います。
しかし、勉強は違います。頑張れば頑張った分だけ子どもたちの学力は伸びていきますし、また伸ばしてあげることが出来ます。親の学力や学習状況は全く関係ないと思います。学力の高い親の子どもが必ずしも学力が高くなる訳ではありませんし、また親が教育者だからといって子どもが勉強できるとは限りません。ちなみに我が家は両親を含め親族、皆教師ですが私は出来は良いほうではありませんでした。不得意教科もたくさんありましたし、高校時代赤点に悩んだこともあります。
勉強が出来るかどうかはDNAで決まるわけではありませんし、親の学習経験で決まる訳でもないと思います。
先週のブログでも紹介した和田秀樹さんの著書にもありましたが、勉強は運動や芸術と違い遺伝、素質、センスは関係なく本人の努力次第で結果が変わってくるものです。ということは、いかに「努力しよとする心」を育てるか?が大切なのではないでしょうか?
親自身が勉強したか、しなかったか?や、勉強できたか、出来なかったか?は関係ないことです。つまり、親自身の学習経験・結果を基準として考えることは子どもの伸びる芽を摘むことになるのだと思います。
また、親の時代と今の時代とでは学習の評価方法や定期テストの難度も違います。言葉は悪いですが、古い時代の判断基準で子どもの学力を判断しては、その子がどんな学力を持っているか見誤ります。さらに今の社会状況と子どもたちが大人になったときの社会状況が同じであるはずがありません。親と同じように歩んだとしても同じような生活を送ることが出来るという保証はどこにもありません。だからこそ、親が「自分」という基準で判断することを止めなければいけないと思います。
どの子も学力を伸ばす芽を持っています。その芽を大切に育て大きく花を咲かせることが出来るようにするには、「自分ぐらいで」から「より高みを目指して」という親の思いが大切なのではないでしょうか。