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三田学院

[2016年6月9日]

大学入試改革は何を目指しているか

大学入試改革をめぐりさまざまな意見が飛び交っています。

都合よく宣伝・広告に使い、生徒募集につなげようとしている意図が見え見えのものもあります。

×:「学力試験型」ではなくなる
×:「公立中高一貫」の受検勉強が有利になる
×:「中高一貫型」の公立や私立が有利になる

これらは、一見まともな解釈に見えますが、真髄をまったく捉えていません。

大学入試改革は、平たく言うと次のような目標を目指して検討されています。

・国内の大学生(大学に入学する高校生)の全体的な学力低下に歯止めをかけたい
・大学入学に相当する学力を持たない生徒は入学させない仕組みをつくりたい
・大学と呼べないような教育・研究しかできない大学を実質的に退場させたい
・大学卒業に相当しない学生に学位を与えない仕組みを作りたい
・大学にふさわしい授業・講義を行えるような学生を選抜できる入試制度にしたい

文部科学省が公表しました「大学入試改革」の中で、問題意識が垣間見える記述を一部ご紹介します。

『「従来型の学力」について中間層の多い高等学校では、・・(中略)・・自主的にほとんど学習せず目標をもてない生徒を多数、選抜性が中程度の大学に送り出してしまっている。』

『「従来型の学力」の習得に困難を抱えている生徒の多い高等学校では、・・(中略)・・入学者選抜が機能しなくなっている大学へ漫然と送り出される場合も少なくなく、・・(中略)・・大学教育に求められる水準に比して不十分な段階にある学生が多いことが深刻な問題となっている。』

AO入試、推薦入試の多くが本来の趣旨に沿ったものとなっておらず、単なる入学者確保(定員割れを少しでも埋めるため)の手段となってしまっている。』*カッコ内筆者加筆

『「高大接続」とは、高校生のすべてを大学教育に接続するということではない。』

『「高大接続」の改革は、「大学入試」のみの改革ではない。』

『「高大接続」は、「知識・技能」の習得を無視する改革ではない

大学設置基準の緩和で、大学と呼べないような実情の大学が増え、私立大学の半数近くが定員割れを起こし、実質的に選抜が機能していない(誰でも合格できる)状況になっています。

ところが、大学はいったん設置されてしまうと、こうした大学や大学生にも、(私立であっても)巨額の補助金が投入されることになります。本来の基準を満たしていない大学や大学生に、多額の財政(公的)資金を注ぎ込むのは無駄だし公平性に欠くと気がつき、何とか改革をしようというのが、「大学入試改革」の真髄なのです。

当たり前のことですが、まともな大学の理工系学部では相応の数学や理科の学力がないと講義や実験についていけません。また、英語力がないと教科書や論文を読めません。同じく文系学部では相応の英語や国語(古文・漢文を含む)の学力はもちろん、分野によっては数学や社会の学力なしに研究などできません。

その当たり前を実現したいのが「大学入試改革」なのです。

「大学入試改革」における「確かな学力」の項では、学力の3要素を、「学習意欲」、「思考力・判断力・表現力等」、「知識・技能」と定義しています。

そして、「思考力・判断力・表現力等」は、「知識・技能」を活用して育むもの(磨くもの)だとしています。

「知識・技能」の習得なくして、「思考力・判断力・表現力等」を育む(磨く)ことはできないと、ハッキリと示しているのです。

蛇足ですが、「自分の考えを言える」ようになること(表現力)が重要だと言う方がいます。もちろん「自分の考えを言える」ことは大切です。しかし、「知識・技能」の裏付けのない「考え」は、時としてその人自身の判断を誤らせますし、時には周りに迷惑をかけることになります。

まずは、「確かな基礎学力」(普遍的な知識、教養、常識、そして「正しく考えることができる力」)を身に付けることが肝要です。その上で「自分の考え」を見つけ出すのが順序だと思います。「確かな基礎学力」を身に付けることよりも「自分の考えを言える」ことを優先すると、どんなことが起こるでしょうか?

客観的でない考え方、論理的でない考え方、偏った考え方、独善的な考え方、利己的な考え方を、発言・主張することになりかねません。

巷で話題の、「モンスター」や「プチ・モンスター」のような人、あるいはその予備軍を大量生産してしまう恐れがあるのではないでしょうか?