[2016年9月15日]
元神戸女学院大学教授で現京都精華大学客員教授、哲学者でフランス文学者(東京大学文学部卒)の内田樹(うちだたつる)先生の言葉が深い。入試国語にも出題されているので一部をご紹介する。
『先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。』
『とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。』
ここで教育の現場とは学校のことと見て差し支えないであろう。学習塾というのは、教育現場において影の存在であるからだ。
学校で国語の授業を真剣に受けても、読解力が向上しないと思われている方も多いだろう。それはなぜか、以下にお言葉を追加でご紹介する。
『しかし、実際には国語教育はこれを逆転させた了解から成立している。まず「いいたいこと」があり、それが「言葉」という不完全な表現手段を経由して読者や聴き手に到達する。そういう言語観が採用されている。』
『その「不完全な媒介者」を遡及して、首尾良く「いいたいこと」に到達すれば「読解の成功」であるというふうにみなさん考えている。』
『だから、そういうしかたで「長文読解」問題は構成されている。「作者は何がいいたいのか?」というのはもっとも頻繁に提示される問いのかたちだが、私はこの問いにどんな意味があるのかいまだによくわからない。』
『現実に読み手聴き手の身体を動かしてしまうというのが「言葉の力」である。 言葉には現実を変成する力がある。そのような言葉に実際に触れて、実際に身体的に震撼される経験を味わう以外に言語の運用に長じる王道はない。』
『子どものときからそのような「力のある言葉」を浴び続けることだけが重要なのである。』
まとめると、まずは「言葉」があって、次に「考え」を生むことができるのである。まず「考え」があって、次に「言葉」があるのではない。
しかし、国語教育の現場では逆転した了解の上に成り立っているから、その流儀に従って「読解を成功」させなければならない。
ここからは見解であるが、逆転した「言語観」を前提にした入試国語の読解問題の解法パターンは、そもそも「逆転した」ものであるから、どうしても後づけのようになってしまう。数学や理科のように理論体系を形成できないのだ。
国語読解の教材が、数学などと比べて、どれも完成度が今一歩の感がするのは、こうした理由からも仕方がないのである。
「力のある言葉」との出会いをより確実にするためには、何度も言及しているように、「国語の知識」を確実に習得しておく必要がある。そして、多くの「力のある言葉」に遭遇できるよう、対象を選んで読書を進めていくべきだ。
単なる読書では「国語の力」など付かないのである。国語の読解問題を解くだけでは、「国語の力」は向上しないのである。