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三田学院

[2016年9月30日]

縮小社会を生きる

2020年、東京都は人口減少に転じる。そして、すべての都道府県が人口減少に転じる。

東京オリンピックは、これまで経験してこなかった縮小社会への入り口の年となる。

人口が減少すると学校の維持が難しくなる。公立学校では統廃合が進む。私立学校では経営統合という実質的な廃校が起こる。

現時点で実質定員割れを起こしている約45%以上の私立大学は、徐々に消滅するであろう。単願(実質無試験)で多くの受験生を集めている私立高校もいずれ存続できなくなるだろう。公立高校ですら危ない。人口減少や財政難で存続の危機にある公立高校がたくさんある。

あなたの母校が次々と消滅していく。

卒業証明書や成績証明書は、学校事務を引き継いだ別の私立学校が手数料を徴収して発行してくれるかもしれない。しかしそれも確実ではない。

国立大学でさえ安泰ではない。すでに文部科学省は国立大学の選別に入っている。当面存続が確実なのは「グローバル・トップ型」の11国立大学であろう。残りの約80国公立立大学は微妙だ。

特に経済学部・教育学部・工学部などしか持たない「旧・駅弁大学」が危ない。地方国立大学の経済学部や教育学部はすでにその役割を終えている。「国立文系学部廃止論」が如実にそのことを物語っている。近隣の国立大学と合併するか、それも難しい場合は自治体運営の大学か、私立大学になる道を選ぶしかなくなる。それは多くの場合「延命措置」でしかないであろう。

高齢者福祉費や防衛費の増加が予想を超えると、国や自治体の教育予算はさらに厳しくなる。学校消滅のスピードが加速する。どんどん行きたい学校に行けなくなる。結果として競争が激化する。これまでとは違う新しいタイプの「受験競争」だ。気がついていない人も多いが、すでにその戦いは始まっている。これから本格化する。

旧都立九段高校は廃校になる予定だった。千代田区がもらい受けて区立の中高一貫校として存続が決まったが、どの都立高校も同じような幸運に恵まれるとは限らない。

人口減少下でも「人余り」は進行し深刻化する。ブラック化した職場が増える。

縮小社会では、資源価格や為替相場による影響といった外部要因を除けば、強いデフレ圧力が継続する。日銀による「異次元緩和」や「マイナス金利」、震災復興という名目の巨額の「公共投資」を行っても経済成長は難しい。マイナス成長をどこまで食い止められるか、程度の効果しかない。東京オリンピックで新たな「公共投資」が始まっているが、高度経済成長期のような「乗数効果」は期待できない。一時的な浮遊感を体感できるくらいで終わるだろう。その後に深刻な「縮小社会」が待ち受けている。

コモディティ化した商品価格には、ほとんど利益を上乗せできない。経費削減は限界まで進む。人件費も例外ではない。利益を確保して存続を図る経営者は、最低賃金の適用除外となる研修名目の外国人労働者を雇うしかなくなる。都市部のコンビニがすでにそうなっている。

しかし、外国人労働者の導入は、就業機会の減少と人件費の低下圧力となる。人々の暮らしは改善するどころか、より悪化する。

さらに、外国人比率が一定割合(約5%)を超えた民族国家は、社会不安が増大することが知られている。外国人比率が7%を超えたフランスが、いまその最前線にいる。

今後は自治体の存続が困難になる。救急はもちろん、消防も有料化しないと存続できない。上下水道も値上げになるだろう。ごみの収集が悩ましい問題になるだろう。有料化すれば不法投棄が増えて社会費用がより高額になる。警察も例外ではない。民間警備会社や自警団で治安を守らなければならなくなる。体感治安が悪化した地域は人口減少が加速しスラム化リスクと直面する。高齢者向け社会サービスもいずれ破たんする。医療保険制度も危機に直面するだろう。一般の人にとって暮らしにくさが当たり前になる。「子育て支援」もできない自治体がほとんどになる。人口減少は止まらない。そもそも「子育て支援」は人口減少を根本的に止められない。自治体間の格差を拡大させるだけだ。本来国が取り組むべき問題だ。しかし高齢者サービスで手いっぱいだ。赤字国債を大量発行しても埋め合わせできない。いずれ発行できなくなる。

日本の健康保険料ほど安い保険料はない。スイスでは一人当たり月額約7万円の基本保険料がかかる。しかも歯科治療は全額自費だ。アメリカで盲腸の手術を受けると150万円かかる。日本の約10倍だ。ドンドン生きずらい社会になる。生きる気力を失う人が増えるかもしれない。「普通に」努力して手に入る生活の水準が大幅に劣化して行くからだ。

現在の日本では生活に必要なものは何でも手に入る。今はなんとか手に入る。そんな時代に今の子どもたちは生まれた。だから、努力しないと生き残れないという感覚が分からない。縮小社会では普通の水準がドンドン劣化していく。今の「普通」を今後も求めるなら、人一倍努力して、すでに普通ではなくなってしまった「普通」を手に入れなければならない。

受験戦争が限界まで過熱化した「高度経済成長期」以上に、静かに、気がつかないうちに、目に見えないような姿で、「新たな受験戦争」が始まっている。「学力の二極化」や「学力格差」が恐ろしいスピードで進行しているのだ。それは「格差社会」と密接に関係しながら、これからも顕著になっていく。建設現場ばなどの肉体労働やサービス業などの単純労働はドンドン「人工知能」や「機械(ロボットを含む)」に代替されていくから、知的生産階級でないと余裕のある暮らしはできなくなる。

・某大学では受付を人型ロボットが行っている。
・バス運転手や電車の運転手は、近い将来に自動運転により人工知能が代替する。
・切符切りははるか昔に自動改札によって代替された。
・経理業務や一般事務も、そのほとんどを人工知能が代替することになる。
・倉庫警備などは、すでに警備ロボットが代替している。
・自動車などの加工組立も、ほとんど産業ロボットが代替している。
・偵察機や爆撃機も無人機が主力になりつつある。
・原発事故の現場では無人機が活躍している。
・医療現場でも遠隔映像などを使った治療が進む。今後は手術も可能になる。
・教育現場では映像授業化が進んでいる。現在最も進学実績の高い予備校は「映像授業」が売りだ。

能力が基準を満たさない人は働く機会を見つけ出せなくなる。基準はドンドン厳しくなる。格差が不可避的に深刻化する。

民間企業だけでなく公共機関も、人工知能や高性能ロボットがその業務を遂行するようになるからだ。

「少人数指導」は学力を向上させる効果がなかった。あったのは教員の負担低減効果だ。それはそれで意味がある。教員が疲弊すると教育行政の質が担保できない。「習熟度別少人数指導」は不真面目で授業の妨害をする生徒の隔離に最も有効な手段だ。しかし学力の低い生徒への効果は限定的だ。学力が低い原因は学校よりも個人にあるからだ。学力を向上させることが学校の目的ではない。就学機会を提供することが学校の本来の目的だ。勉強をモノにするかどうかは個人にかかっている。同じ授業を受けて成績優秀者と学業不振者に分かれるのだから、個人の責任であることは一目瞭然だ。このことすら理解できない人がいる。

日本史上まれに見られた極端な「平等社会」は、今後どんどん崩れていく。そもそも弥生時代以降は「格差社会」が当たり前であった。文明社会というのは「格差社会」なのだ。現代の平等な社会というのは、第二次世界大戦後に一部の先進諸国で見られた、一時的で特異な現象だ。ヨーロッパでも北米でも、すでに終焉している。日本も例外ではないのだ。

「平等社会」を一時的にでも手に入れることができずに、衰退した文明がほとんどだ。実名は挙げないが、今も近隣諸国がそのような状況にある。「格差」がなくならないまま「発展」し、なくならないまま「衰退」していくのだ。

「平等社会」を実現したいなら、すべての人が等しく貧しくなるしかない。すべての人が等しく豊かになれるというのは幻想でしかない。

北欧やオランダ・ベルギー・スイスなどは、生活水準が高いことで知られているが「平等社会」ではない。桁外れの高級住宅街と治安が悪く立ち入りがたい街の両方が実在する。希望が持てず麻薬に走る若者も多い。長期失業中の大人も多い。物価高が暮らしを追いつめている。

普通の暮らしを手に入れたいなら、危機感をもって勉学に邁進すべきだ。

教科書が無料なのもありがたいと思え。高校や大学の教科書は有料だ。粗末にしてはいけない。ドリルやワークはすり切れるまで何度も解け。教科書は紙がふにゃふにゃになるまで何度も音読しろ。国語辞典や英語辞典はページが脱落するくらいまで何度も使え。

提出物の期日を守れないのも信じがたい。社会人なら職務怠慢で懲戒処分だ。テスト日が近づかないと勉強しないのも考えられない。ノルマのある仕事についたら、いつも最低目標が未達成になるだろう。いずれ仕事を失うことになる。

アドバイスを真摯に聞かない人に将来はない。上司の業務命令に従えない人は、公共でも民間でも雇ってもらえない。

どれも社会に出てから活きる基本的な訓練だ。企業の人事担当者が、卒業学校や成績証明書を採用判断に使うのには意味がある。学業成績と社会人になってからの業績には強い相関があるからだ。

高卒だから、大卒だから、も意味がなくなりつつある。どちらも「実質全入」時代だからだ。これも勘違いしている人が多い。高卒だから就職できないのではない。大学卒なのに就職できないのは社会問題なのではない。どの高校や大学も等しく評価してもらえるわけではない。どの学校を卒業し、どんな学業成績であったかが問われているのだ。それがあなたの能力だからだ。企業も公共機関も能力の高い人から順に採用する。当たり前のことだ。縮小社会ではその評価基準がより厳しくなるのだ。