[2016年10月2日]
学力は「商取引」で手に入ると考えている保護者がいる。
・授業料を払えば学力が上がる(買える)。
・授業料を払ったのに学力が上がらないのは学校や塾が悪い。
学生時代に真摯に勉強に向き合ったことがない人なのだろうと推察する。
つまり好成績を上げた成功体験がないのだ。だから、どうすれば良いかを知らないし、聞いても理解できない。お金を払えば何とかしてくれるんでしょ、と短絡的な考えしか思い浮かばない。真摯に学力アップに取り組んできた人には、全く思いつかない発想だ。
こうした人も、わが子の学業成績が上がらずに、学習塾に駆け込んでくる。中には転塾を繰り返させる人もいる。これまでの過ちを棚に上げて、短期間にお金で学力を買おうとする。不思議な迫力がある。スゴメば何とかなるとでも思っているのかもしれない。
しかし、学力は商取引では買えない。
元神戸女学院大学教授で現京都精華大学客員教授の内田樹(たつる)先生の別の言葉をご紹介する。『教師たちが政治家やメディアや市場原理を信じる保護者たちの要請に屈して、「教育とは代価に見合う教育商品・教育サービスを提供するビジネスの一種である」という教育観を受け容れたときに、商取引のタームで教育が語られることを許したときに、教育の奇跡は息絶えるだろう。』
*教育問題について書かれたコラムなので、「教師(たち)」と書かれているが、「予備校講師」や「塾講師」も該当するだろう。
小学校時代の恩師から聞いた言葉を思い出す。「私はみなさんを水飲み場に案内できる。しかし水を飲むかどうかは、みなさん次第だ。」と。意味するところを理解できなかった生徒は、水飲み場で十分に水を飲まず。その後の行程で喉の渇きに苦しむ。
塾には「成果主義を求めます」という言葉を聞いたときは辟易した。
そのまま、その言葉をお返ししようかと思った。お子さんには「成果主義を求めます」と。しかし、理解できないだろうと考えなおし思いとどまった。
アドバイスを右から左へ聞き流すなら成果は期待できない。指導を受けても指導に従わなければ果実はもたらされない。課題を出されても解こうとしなければ効果はない。欠席や遅刻が多ければなおさらだ。真面目に勉強にどれだけ取り組めたかが決め手になる。成果はわが子に求めるべきだ。単純な理屈だ。それすらわからないのだろうか。
保護者の価値観が子供の価値観に如実に反映される。これまで学力が希望通りにつかなかったのは、保護者の誤った価値観が最大の原因だ。これまで努力しなかったことを棚上げにして、「他力本願」で学力を伸ばそうとしても道理が許さない。「他力本願」を止める気がなければ明日はない。
「成績が下がった」という人も、そのまま言葉通りに聞けない人がほとんどだ。
実はもっとデキる子なので、この塾で元に戻して欲しいと言う。しかも、短期間で戻して欲しいと言う。しかし、成績を「上げて」も(妄想水準まで届かないと)「下がった」という。強い妄想がそうした錯覚を生むのだ。妄想を基準にしているので、客観的な事実が受け入れられない。
下がったのではなく、下がったと感じてしまっているだけなのだ。もともとデキが良くなかっただけだ。学年が上がるほどに、そのことが顕在化しただけだ。こういう人の子が学習塾に来ても結果は芳しくない。しかも、「成績が上がっても、(妄想基準で)下がった」などと言うから、事情を知らない人は誤解する。風評リスクにつながりかねない。
小学校の成績を読み違えている人が多いことは、以前の日記でもさんざん書いた。小学校の成績評価が「よくできる」「できる」「もう少し」の3段階評価の場合、「できる」はさほど「できない子」だ。「よくできる」は「できないとは言えない子」程度だ。「もう少し」は絶望的な学力だ。学年相応の最低必要な基礎学力がないと考えてほしい。大学であれば「不可」だ。単位がもらえず落第だ。退学(除籍)まっしぐらだ。
分かりやすく言うと、すべて「できる」=3だ。すべて「よくできる」=4だ。すべて「もう少し」=1だ。ただし、絶対評価では「1」はほとんどつかないから「2」だ。オール「2」は相対評価時代のオール「1」だ。
「できる」以上がほとんどであった子の親に、「うちの子は勉強ができる」と勘違いする人が多い。しかし、実はほとんどが「普通」の子だ。小学校の通知表の評定はあてにならない。すべて「できる」以上で、「よくできる」が半分程度あっても、学力テスト型の模擬試験(高校受験偏差値に近い)で偏差値40未満もある(中学受験偏差値なら30未満)。高校進学が危うい学力水準だ。それくらいあてにならない。そもそも、小学校の通知表は純粋な学力のみを評価していない。そこを間違えてはいけない。純粋な学力は高くなくても「よくできる」や「できる」がついたりするのだ。中学でもそうだ。偏差値と内申素点の関係が男女で大きく違うのが一つの根拠だ。純粋な学力を厳密に評価しているのなら、この2つの関係に男女差はないはずだ。
オール「よくできる」でも安心できない。中学に入って「オール4」以上が取れれば順当だと思ってほしいくらいだ。
ある都内の公立中高一貫の合格者の分布を、以前この日記でご紹介した。ほぼオール「よくできる」(注)でも合格率は50%程度だ。ほぼオール「よくできる」でない人は、合格率が20%以下になる。「よくできる」はその程度のレベルだ。「できる」ばかりの人はさらにレベルが下だ。
注)教科ごとに評価項目があり、全体の「よくできる」の数ではなく、教科ごとの「よくできる」の数により教科ごとの評定が決まる。しかし、全体の85−90%以上が「よくできる」なら、概ね全教科の評定が満点であるだろうと推察できる。
受験の予定がなくても、受験は数年先であっても、模擬試験を受けることが有効だ。正確な学力評価なしに適切な学習目標や学習方法は選択できない。妄想癖が病的に強くなければ、何度か受けるうちに、しだいに自分を客観的に評価できるようになる。なぜこの点数や偏差値になるのか、学力を向上させるために何をすべきかを考える機会にもなる。学力はお金では買えず、地道に取り組まなければならないのだと、心から理解する。そのとき、本当の意味で、学習塾はあなたの力になれる。(ただし他の学習塾については責任はもてない。)
最後も内田先生の言葉で締めくくりたい。
『「教卓の向こう側」には圧倒的な知的アドバンテージを有するものが存在する。生徒たちが差し出すどのような代価も、教師からの「贈り物」の価値を相殺することはできない。(中略) 子供たちはまず「教卓」を介して「この世界には私(自分)の理解を超えた数理的秩序が存在する」という信憑を身体化する。そこから科学的探求心と宗教的覚醒が始まる。そこから人間は人間的なものに成長してゆく。この理路をまったく理解していない人たちが教育について語る言葉が巷間にあふれているので、贅言と知りつつここに記すのである。』
*引用文内のカッコ内の言葉は、この日記の著者が追加した。