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三田学院

[2017年9月4日]

歴史と教育

ある私立中学の学校説明会の配布資料を拝読して驚いた。

「日本が、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争へ突き進んだのは、明治になって禄を失った武士が、尋常小学校の教員となり『富国強兵策』を教育現場から推進したからだ」と、校長先生からの御挨拶文にある。「武士とは『戦闘集団』であったからだ」と続く。

これが、学校パンフレットなどとともに、参加した保護者すべてに配布されたのである。

もともとリベラルな校風で知られた学校ではあったが、かなり一般論とはかけ離れた歴史解釈に動揺を禁じえなかった。

個人の主義主張に従って発言をすることは間違っていないし、憲法でも基本的に許されていることだ。

しかし、教育関係者となると、何を言ってもいいわけではない。

まして、教育関係者なら、歴史解釈についての発言は、個人の思想によらず、人文・社会科学的に一般に認識されている解釈から大きく外れない方が良いのではないか。校長の発言は折に触れて生徒が耳にすることだろう。偏った思想や考えをもつ若者を育成することにつながりはしないか。

もし、この発言が主義主張によるものではなく、客観的な事実だとの認識で行われたなら、今度は教育者としての基本能力に疑義を持たざるを得ない。

戦前において、ほとんどの教員は「富国強兵政策」を推進せざるを得ない立場に追い込まれて、深く悩み苦しんだ。教員のすべてが「富国強兵政策」を己の自発的な意思で推進したのではない。

明治政府は早い段階から師範学校による教員育成に取り組んでおり、明治初期ならまだしも、後の多くの教員は師範学校出身者が主力となっていく。太平洋戦争ともなると、明治維新から長い月日がたっており、禄を失った武士が原因とするのはどうだろうか。

武士とは「戦闘集団」であるという解釈もかなり一面的ではないか。

江戸時代の歴史を見れば分かるように、武士の主な仕事は「行政」であった。法の制定、税の徴収、産業振興、農業振興、治水、警察、仲裁などである。江戸幕府成立後、幕末までの約200年の長い間、戦闘行為はほとんど行っていない。

戦国時代においても、大名や武士は、日常的には「行政」が主な任務であった。日々開けても暮れても「戦闘」ばかりしていたわけではない。室町時代の「応仁の乱」は10年も戦闘が続いたが、それゆえに歴史上で特に有名な特異な史実となった。「第4次川中島の戦い」も「関ケ原の戦い」も、ほぼ半日で戦闘自体は終わっている。

旧武士階級は「知識階級」でもあった。むしろ、この色彩の方が「戦闘員」としてよりも強かったのではないか。明治以前においても「学問」を主導したのは「武士」であった。蘭学者などの多くは「武士階級」の出身である。もっと広い視点で研究者らの成果を受け入れるべきではないか。

また、明治政府は「徴兵令」により、むしろ武士ではない階級から兵員を広く集めたので、武士の多くは、ここでも軍人としての職にありつけなかった。

「自由民権運動」を推進したのも武士である。また、幕末や明治期の私立学校の創始者にも旧武士階級出身者が多い。武士が軍国主義を主導したとする主張は、客観的な根拠が十分でない。

明治以降、日本が外国との戦争を行った理由は、それぞれの時代における国際情勢に求めるのが、人文科学的にも社会科学的にも適切な姿勢ではないだろうか。

教育関係者は、専門の研究者でなくても、科学的な態度というものを常に意識してほしいものである。

旧武士階級や旧尋常小学校教員に対する個人的に特別な感情があるのだろうか。だとしたら公私混同ではないか。

この「ご挨拶文」をもって、この学校を受験指導の対象から外すなどという、大人気ない行動をするつもりはない。

しかし、少なくともわが子が受験生なら、つまり保護者としてなら、大いに躊躇することになるだろう。

当然に、もし塾生の保護者から相談を受けたなら、この「御挨拶」文の存在を知らなかったことにすることはできないだろう。