[2018年1月4日]
短い正月休みの間、今年は『器(うつわ)』について考えていた。
中学受験でも、高校受験でも、大学受験でも、もちろん小学受験でも、最初に考えなくてはならないことは何だろうか。
『器(うつわ)』ではないかと思う。しかし、巷には、このことを飛ばして、受験!受検!と突っ走る傾向があるように感じるのは、私だけであろうか。
そもそも、人には『器』とういうものがある。それは遺伝によるものだとか、努力によるものだとか、環境によるものだとか、様々な議論がある。現代の科学をもってしても、どれも決定打とは言い切れない。
しかし『器』は確かにある。
・誰もが100メートルを10秒以内で走れるようにはならない。
・誰もが時速160キロの速球を投げられるようにはならない。
・誰もが壮大な管弦楽の曲を作曲をでるようにはならない。
・誰もが新たな物理学の法則を見つけられるようにはならない。
そんなことは分かっているはずだ。
ところが、中学受験になると、なぜか、そこのところが分からなくなる人が多い。
・誰もが開成や桜蔭に合格できるようにはならない。
・誰もが日比谷や小石川に合格できるようにはならない。
もっと書けば、
・誰もが難関私立中に合格できるようにはならない。
・誰もが都立中やトップ都立高校に受かるようにはならない。
そんなこと、言われなくても分かっているよ、と言うかもしれない。
しかし、一般論として分かっても、個別論となると、つまり我が子のことになると、とたんに分からなくなる人がいる。かなりいる。
そのことが気になるのだ。
・平凡な子なのに、大手中学受験塾に通わせる親がいる。
・平凡な子なのに、都立中受検などと言いだす親がいる。
・成績は、志望校には遥かに届かないのに、諦められない。
・成績は、もう頭打ちが続いているのに、諦められない。
最初に、わが子の『器』について考えてみただろうか。
途中で、わが子の『器』について、再点検してみただろうか。
そもそも、その道で努力させる『器』だったのだろうか。
私立中受験や高校受験では、目標はいくらでも下方修正できる。『器』でないと分かっても、適切な軌道修正をできるなら、続けることはアリかもしれない。
しかし、都立中受検となると、そうはいかなくなる。最も難易度が低い学校でも、かなりの難しさだ。誰もが挑戦できるような学校ではない。どんな『器』でも挑戦できるような学校ではない。最初に、『器』について十分に検討してから、都立中受検を考えた方が良いのではないか。いつになったら、わが子の『器』を正確に評価できるようになるのだろうか。
それぞれの『器』には、盛るに相応しいモノがあるのではないだろうか。
アナタの子の『器』は都立中受検の『器』だろうか。
・都立中受検の『器』なら、しっかり盛れば合格できる。
・都立中受検の『器』ではないなら、盛ってもこぼれるだけで、合格はない。
・都立中受検の『器』でも、盛り方がダメなら、合格はない。