[2018年1月26日]
いよいよ運命の日がやってくる。
合格か、不合格か、どちらかしかない世界だ。
ゾロアスター教に始まり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教には、「天国と地獄」、「善と悪」といった二元論的な世界観がある。入学試験というのは、この二元論的な裁きをうける儀式のようなものだ。
つまり『最後の審判』だ。
キリスト教における宗教改革の指導者、ジャン・カルバン(昔の教科書ではカルビン)は、「神の救済にあずかる者」と「滅びに至る者」が予め決められているとする『予定説』(二重予定説)を説いた。
つまり、天国に行く人と、地獄に落ちる人は、裁きを受ける前からあらかじめ決まっているという考えだ。
どこか似ている。以前、合格する人と不合格になる人は、入試の前に、もう決まっていると書いた。よって、入試日が迫ってから、不安になっても、ジタバタしてもしかたがないとも書いた。やっぱり似ている。
太古の昔から、運命とはそういうもので、それが、このような経典の解釈につながったのかもしれない。
社会学の父、マックス・ウェーバーは、著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで、己の運命は神のみぞ知り、裁きを受けるまで分からないのだから、天国行か地獄行かにかかわらず、誰もが真面目に働くべきだという「プロテスタントの倫理観」が、北西ヨーロッパや北米の近代化につながったと分析した。
合格する人も、不合格になる人も、残り期間を粛々と準備に費やすしかない。裁きの日はもうすぐに迫っているのだから、試験問題の前で、最高の自分を披露できるように準備するしかない。
ただし、合格する人と、不合格になる人は、裁きの日の前にすでに決まっている。しかし、それは誰かが事前に決めたのではない。受検生であるアナタが事前に決めたのだ。アナタにはもう分かっているはずだ。これまでの準備や対策が、合格に値するか否かを。
裁きは粛々と行われる。
「合否ラインに、せめぎあいはない」 ― 都立中で受検生を何度も裁いたことのある人の言葉だ。
素人予想とは完全に違って、合否ラインに受験生の得点は集中しない。
総合得点順に1列に並べて、定員に達したところまでの受検生に、まとめて「合格」が言い渡される。
その次の受検生から「繰り上げ候補」が言い渡される。これには順番札が付いている。
何も言い渡されなかった受検生は「不合格」だ。
これが『最後の審判』だ。