[2018年3月10日]
神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。
アルベール・カミュ著「シーシュポスの神話」(新潮文庫)より
毎年のように受験生を合格という山頂に押し上げても、受験シーズンが終わると、また新たな受験生を合格まで押し上げなければならない。なんと悲劇的で、なんと不条理なことだろう。
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやり遂げられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれを支えているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。(中略) しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。(中略)ところが、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨なあり方を隅々まで知っている。 まさにこの無残なあり方を、かれは下山の間中考えているのだ。かれを苦しめたに違いない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。
生きるということは、不条理と対峙することでもある。しかし、不条理を見抜き、それを受け入れることによって、ヒトは不条理に勝利することができる。不条理に勝利することは、生きることに勝利することに等しい。
日々の、一見すると無意味に見える一つ一つの試練は、その瞬間において不条理そのものかもしれない。しかし、その不条理を受け入れてこそ、アナタの勝利が完璧なものとなる。
このことを、知っておくとよい。
高校数学と格闘する中3生らを前に、高校時代に読んだカミュの名著を思い出した。ワタシもその頃、格闘の最中にいたことを覚えている。
自らを甘やかしたり、意識することを怠ったりして、不条理と適切に向き合えない者に、勝利などない。
今日の日記は、すべての塾生に捧げる。