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三田学院

[2018年6月20日]

【中高受験】夏に広がる学力格差、その2

・勉強しないで、よい学校に合格したい。
・お金をかけず、よい学校に合格したい。


・練習しないで、スポーツで優勝したい。
・練習しないで、発表会で褒められたい。

・仕事しないで、よい給料をもらいたい。
・努力しないで、豊かな人生を送りたい。

煩悩は尽きない。

・幼いころから、テニス一筋の人生を送り、若くしてプロテニスプレイヤーとなった。
・幼いころから、将棋一筋に人生を捧げて、若くしてプロ棋士となった。

称賛を受ける。

・幼いころから、必要な費用をかけて、真剣に受験勉強に取り組み、誰もが羨む学校に進学した。

称賛を受けないことがある。

なぜだろう?

なぜ、テニスや将棋は良くて、勉強はダメなのだろう。
なぜ、部活動や家族旅行は良くて、勉強はダメなのだろう。
なぜ、習い事や友達遊びは良くて、勉強はダメなのだろう。

理由の一つとして考えられるのは、費用対効果の見え方の違いだ。

勉強は、費用を人並みに注ぎ込んで、やっと人並みの成績が得られる。費用をつぎ込んで人並みだから、コストパフォーマンスが良くないように感じる。習い事や部活動は、勉強と違って、すべての人が取り組むわけではない。ピアノを習うと、習っていない人よりピアノが上手になる可能性が高い。つまり、投入した費用に対する効果が見えやすい。

勉強も投入した費用に対する効果はある。しかし、みんなが取り組んでいるので見えにくい。浅はかな人には、効果がないかのように見える。このようにして費用投入に抵抗を感じてしまう。逆に、投入費用に対する効果があるということは、費用を投入しないと効果が期待できないということだ。塾に行かず、家庭教師もつけず、親に学習指導能力が不足した状態では、子が効果的かつ効率的に勉強を進められる可能性は低い。進められる人もいなくはないだろうが、多くはないだろう。

海外旅行やオシャレや豪華な食事に、パーッと使いたい。欲望が抑えきれない。我が家は経済的に余裕がないので、という親のほとんどは、実は経済的にひっ迫してはいない。親が煩悩に費やすお金が必要だから、教育費に回すお金を削りたいというのが実態だ。本当に予算的にムリな人もいるだろう。しかし、そうではない人もかなりいる。

預かっている生徒と会話しているとワカる。

お休みしていた間は何をしていたのと聞くと、「家族で海外の高級保養地(国名や地名を書くと生徒が特定されるので割愛する)に行ってました。」と素直に答える。「とっても楽しかったよ。でも、ぜんぜん勉強できなかったから、今かなり焦ってる。旅行に行く前に習ったことも全部忘れちゃった。」

どうして、中途半端な受講コマ数なのと聞くと、「お父さんがクルマを買い替えるからお金が足りないって言ってた。」と正直に答える。「今夜は雨が激しいから迎えに来てくれているよ。優しいお父さんなんだ。窓から見える白いクルマがそうだよ。」と言って新車の高級外車(車種を書くと生徒が特定されるので割愛する)を指さして教えてくれる。

なるほど、と思う。

裕福な家庭だから私立中学受験をしているのではない。いい学校に入りたい家庭が私立中学受験をしているのだ。私立中学を受験する家庭は、収入的にはごく普通の家庭がほとんどだ。都立中を目指す家庭と大差はない。さらに、東大合格者の親の収入が高いように、経済的に余裕がないから国公立を目指すのでもない。都立中合格者の親に経済的余裕がない人はむしろ少ない。

教育費に回すお金を削りたいというのが本当の理由の場合、子は被害者となる。勉強に取り組める環境整備がないまま、勉強しろと、成績を上げろと、子に厳しく迫るのは、虐待的だ。

受験勉強は必ずしも成功するとは限らない。そもそも、お金をかければ必ず成功するというものでもない。だから受験に失敗したときのことを考えると、教育に費用を投じることに抵抗する気持ちが、ムクムクとこみあげてくる人がいるのだ。

特に、「都立中単願受検」の親に顕著だ。都立中不合格だと、注ぎ込んだ費用がパーになるという強迫観念に苛まれる。私国立中受験の場合は、適切な併願戦略を取れば、注ぎ込んだ費用がパーになることはないから、多くの人に、ムダ金を注ぎ込んでいるという感覚はない。

教育費を節約したがる人は、勉強や受験勉強に必要な費用の価値が正しく理解できていない。

日比谷や小石川は、伸び切った生徒よりも、できれば、伸び代の大きそうな生徒が欲しい。だから、学校説明会などで、受験生親子に対し、意味深長な表現をする。それを、塾に通って全力で受験勉強してきたような子はいらないなどと、都合の良い解釈をしてしまう人がいる。

日比谷や小石川の言う「将来のグローバル・リーダー」とは、具体的には「難関国公立大学に合格する人」のことだ。日比谷や小石川の教員は、難関国公立大学に何人合格させたかで評価される。

小石川教養主義は有名だ。
日比谷も教養主義を掲げる。

どちらの学校の「教養主義」も、「文理分けをせずに、すべての教科を学ぶこと」だと、学校作成の資料に明記されている。

すべての教科を学ぶということは、具体的には、国公立大学に合格できる学力をつけなさいということだ。日比谷の進学指導の責任者が、私の前で明言したことだ。都立高校トップ校や都立中が「求めている生徒像」とは、具体的には、「将来に国公立大学に合格できる子」だ。

もう一つ、夏期講習や冬期講習になると、とたんに受講に抵抗を示す親がいる。

これほど分かりやすい親はいない。先ほど、受験勉強の価値を金銭的支出のみで評価する人がいると説明した。まさに、金銭で評価する人ほど抵抗する。

しかし、金銭で評価しているから抵抗があるのだとは思いたくない。そこで、「充実した小学生生活」という、実に都合がよい大義名分を、無意識に担ぎだす。

夏休みは約40日間ある。平均的な夏期講習日数は、フル受講でも、25日程度ではないだろうか。

15日も予備日がある。2週間分もある。ここで家族旅行したり、読書に熱中したり、スポーツを楽しんだり、友達と遊んだりすればよい。

しかも、小4や小5は、丸1日缶詰になることはない。ウチなら平均して半日以下だ。時間にすると、たった1日4時間だ。1日は24時間ある。夏期講習をフル受講しても、1日20時間も残る。十分な睡眠や休息時間を確保しつつ、いくらでも勉強以外のことにも取り組めるし、熱中もできる。2時間連続して熱中して遊べば、十分な満足度になるのではないか。博物館や水族館や劇場などに、毎日のように出かけていたら、引率する保護者が疲れ切ってしまう。どれだけ勉強以外のことに取り組みたいというのか。

はたして、目的意識や計画性をもって過ごしているだろうか。実はムダな時間がほとんどではないか。ただ、だらけているだけではないか。ムダな時間や、だらけた時間がほとんどだから、勉強に充てる時間が不足してしまうのではないか。

学校休業期間でなければ、1日6時間授業が当たり前だ。1日4時間の学習が負担なようでは、そもそも、平日の学校の授業にも対応できていないことになる。席にはついているが、授業に参加していない時間が多く含まれているのではないか。ただ座っている時間が多いのではないか。心は上の空で、鉄道駅名を思い出したり、少女漫画の世界にトリップしていたりしているのではないか。そんなことでは、「よくできる」が増えないのは当たり前だ。

「夏期講習をフル受講すると、小学生らしい日々が送れない」とするのは、論理に破綻がある。

小4以降の受験期に入ると、やれ家族旅行だ、やれ帰省だ、やれ習い事だ、やれスポーツだ、やれ読書だ、やれ博物館だ、やれ美術館だ、やれキャンプだ、やれ海水浴だ、やれスキーだと、やたらと騒ぎ始める人がいる。受験を意識する頃になると、騒ぎが大きくなる。

小3までには、家族旅行や、帰省や、習い事や、スポーツや、読書や、博物館や、美術館や、キャンプや、海水浴や、スキーなどの「充実した小学生生活」というものに、どれだけ取り組んできたのだろうか。

未就学期は保育園に丸投げして、小3まで学童保育に丸投げするような、「子育て手抜き親」や「子育てサボり親」も多い。そういう親こそ、小4から習い事で放課後を埋めてしまう傾向がある。習い事は学童保育の代替でしかなかったりする。塾も学童保育の代替でしかなかったりする。だから、習い事と勉強の優先順位が怪しくなる。

塾代が、習い事費用や学童保育料より高いと、受験ばかりでは、子が可哀そうとなる。実は、自分の懐具合が可哀そうなのだが、勉強ばかりでは、子が可哀そうということにしてしまう。

何事にもトコトン取り組んで、まさに「充実した小学校生活」を送ってきた子は、しかるべき時期になれば、すんなりと、受験勉強に熱中できるようになる。小4や小5になっても受験勉強に集中できないのには、それまでの過ごし方に問題や原因がある。

つまり、小5や小6になっても、受験勉強に熱中できない子というのは、幼少期や低学年と中学年で、家族旅行や、帰省や、習い事や、スポーツや、読書や、友達遊びなどに、トコトン取り組んでこなかったということだ。親が本気で取り組ませていなかったのだ。

要するに、「勉強以外もいい加減だった」ということだ。だから、おなじように「勉強もいい加減」になる。「勉強以外でも熱中はしてはいなかった」から「勉強にも熱中できない」。

大人が、パチンコに熱中するのを、熱中すると呼ぶのか。大人が、ゲームやスマホ遊びに熱中するのを、熱中すると呼ぶのか。息抜き最優先、娯楽最優先、欲望最優先、そんなコトを体験や経験と呼ぶのか。どうしてそんなに大切なのか。

小4、10歳。それまでは「具体的」なコトしか認識することができなかった子が、「抽象的」なコトを理解できるようになる時期だ。「実物体験」から「思考体験」へと移行する時期だ。小学校で学ぶ算数も、小5から抽象的な概念が多くなる。進学塾では、小4から抽象的な学習内容を扱う。いつまで、実物体験や実物経験ばかりではいけない。

抽象的な思考力の育成に取り組まないと、早晩、行きずまる。算数・数学が顕著だ。理科もそうだ。今や国語や社会も抽象的な思考力が必要になった。勉強自体が行きずまる。受験勉強どころではない。単純な1行計算や、単純な暗記だけの学力試験も、今やなくなりつつある。都立中の適性検査が始まる前から、実は入学試験は思考力の勝負であった。今や、それが鮮明になっただけだ。都立中だけが思考力入試をしているのではない。暗記や計算が必要ない思考力試験などは、そもそもない。それでも、小4を過ぎてもまだ、実物体験や実物経験ばかりを優先するのか。

さらに、もう一つ。息子ならムリしてでも教育出費をするのに、娘だと教育出費をためらう親がいる。

もうお分かりだろう。女子には教育費をかけても回収できないと思っているのだ。これも、子育てや教育を、金銭的な損得で判断する人の典型的な思考パターンだ。

女性である母親がそうした判断をすることが多い。女性が男尊女卑を推進してどうなる。女性が男女平等を実践できなくてどうする。すでに実社会では、20才代や30才代では、女性の平均所得の方が、男子よりも高い。家事や育児を男女でより協力し合える社会が実現すれば、生涯にわたって収入や社会進出の男女差はなくなるはずだ。今の小中学生が社会人となる頃には、より男女差が解消されている可能性が高い。親が男尊女卑ままでは、子は不幸になりかねない。

受験勉強は計画的に取り組むべきだ。後手後手に回らず、先手先手で行くべきだ。小3までに、やることはやり切って、遅くとも小4が終わるまでに、自ら進んで受験勉強できる子に育てなさい。受験勉強に熱中できる子に育てなさい。

中学受験は逃げられても、高校受験は逃げられない。いつまでも逃げ続けることはできない。どこかで真剣に取り組むしかない。どこで取り組んでも、費用はかかるし、心労も絶えない。

子の教育を諦めるなら、費用からは逃げられる。しかし、子の教育を完全に諦められない限り、心労からは逃げられない。親としての煩悩がある限り、心労からは逃げられない。子の成長した姿が芳しくないと、親は自分を責めることになる。アレコレ理由をつけて教育費を節約したからだと自分を責めることになる。そして、生涯、つまり死ぬまで自責は続く。

親としての宿命だ。

親が逃げれば、子も逃げる。

親が逃げるから、子は逃げる。

親が本音では逃げるから、子は本音では逃げる。

まず親が、逃げずに立ち向かいなさい。

そうしなければ、子が逃げずに立ち向かうことはない。