[2019年4月22日]
先日、都内のある有名女子中学のオープンスクールに参加してきた。
受験生の保護者でないと参加できないことが多いこと、塾向け説明会では生徒の様子が確認できないことがほとんどであること、自由に参加できる場合でも中年オヤジだけの参加は警戒されかねないことなどから、有名私立中学の生徒の様子を確認できる機会は多くない。
今回は先入観なしで参加させていただいたが、かなりの衝撃を受けた。久しぶりなので忘れていたが、そうだったな、と反省した。
とにかく、礼儀作法がしっかりしている。ニセモノではない礼儀作法がしっかりしている。それは、見学者に対してはもちろんだが、生徒同士の挨拶や礼儀、教員やスタッフに対する挨拶や礼儀がしっかりしているから、見学者がいなくてもしっかりできているという意味で、ニセモノではないということだ。学校公開や学校説明会のときだけ挨拶できるというような半ニセものではない。学校公開や学校説明会でもきちんと挨拶できない生徒がいる学校すらある。
挨拶や礼儀だけではない。所作がすばらしい。ダラっとしていない。常に行儀や姿勢がよい。誰かが見ているからではなく、見ていないふりをしていても、常に変わらない。
部活動も見学したが、面倒なことでも率先して行う姿勢が身に付いている。しかし、コーチや先輩がでてくるとサッと身を引く。わきまえるところはしっかりわきまえることができる。
つまり、品格があるということだ。おそれいった。
入学難易度もそれなりに高いが、偏差値では語れないバリューがあると思う。
保護者もそれなりの方が多く、落ち着いたオープンスクールであった。
随分前だが、保護者として、ある大手塾の公立中高一貫コースの説明会に参加させていただいたことがあった。保護者のほとんどが、絶滅危惧種かと思っていたヤンキーと、近年増殖中のミニ・ヤンキーばかりで、すこぶる居心地が悪かったのを覚えている。とにかく目が合わないようにと緊張していなければならなかった。帯同する受験生予備軍もまた、それをそのまま小さくした感じの子が多かったのが印象的であった。合格者の多くは、そんなことはないから、そこにいた多くは不合格になったか、受検を見送ったのであろう。
教室ではなく塾全体のコース責任者が、入塾して頑張れば、誰でも合格できるかのように説明していたのが衝撃的であった。正気で言っていたのか、商機で言っていたのか、確認することなどできないまま、とにかく一目散に逃げ帰ってきたことを覚えている。恐ろしい世界を垣間見てしまった。今でも思い出すと悪寒がする。
個人的な見解だが、名門と呼んでも差し支えないだろう、この有名私立女子中に対抗できるのは、都内の公立学校なら、都立小山台高校ぐらいではなかろうか。
しかし、気品という評価項目を加えると、小山台高校でも太刀打ちできないかもしれない。
さらに、掃除が行き届いていることを評価項目に加えると、都立学校はほぼ全滅する。
残るは、国立大学附属中学だろうか。筑波大学附属中学は、おそらく私立女子校のような礼儀作法の指導などしていないと思うが、礼儀作法、行儀姿勢がよい。とにかく、在校生の印象は絶品である。
有名私立女子中学。
そこにはバリューがある、つまり存在価値がある。
公立学校では、躾や礼儀作法など、最低限しか指導してもらえないし、徹底させるだけの余裕も時間も体制もないから、原則として、躾や礼儀作法は家庭教育で行わなければならない。ところが、きちんとした躾や礼儀作法を子に指導できる家庭ばかりではない。必然的に、行儀の悪い子供が公立学校には多く生息するようになり、行儀の悪い若者が大量に世に送り出されることになる。
「道徳」よりも「礼儀作法」の授業を行ってはどうだろうか。行儀が悪い子にとっても、行儀が良い子にとっても、学校にとっても、地域社会にとっても、産業社会にとっても、国家にとっても、実利があるのではなかろうか。
簡易プログラミング教育を推進しても、早期英語教育を推進しても、低学力層には効果は期待しずらい。アクティブ・ラーニングは、学力の二極化を拡大させかねない。しかし「礼儀作法」なら、もともと高い素養は必要ないはずで、幅広い学力層で効果が期待できる。ただし、言葉遣いなどを含めて「粗暴」を愛好・志向する層までに浸透させるのは難しいかもしれない。「粗暴」愛好系には「道徳」も効果は期待できない。
都立戸山高校などはホームルームすらなく、いきなり授業が始まる。公立小学校や公立中学校を経由して入学してくる生徒がほとんどだろうから、当然に、躾や礼儀作法の身に付き方には、大きな個人差が見て取れる。
そのバリュー、分かる人には分かる。
そのバリュー、分からない人には分からない。
仕方ないのかもしれない。
分からない人には、生涯、分からないものだから。
気がつかない人は、一生、気がつかないのだから。
「はあっ?」とか「ピンとこない!」とか言いながら、死ぬまでスルーなのであろう。