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三田学院

[2019年9月10日]

【地元公立】 「イジメ」とは何か?

学校教育現場におけるイジメ報道が後を絶たない。

イジメとは何か。何をイジメとするのか。

この定義が明確でないと、適切な対応も適切な対処も難しいであろう。

次のようなケースを検証してみたい。

児童Aは小学校入学当初から問題行動が続いている。授業中であっても突然に意味不明の大声を上げて、クラスメートが授業を受けるのを妨害する、クラスメートに唾を吐きかける、クラスメートの机や持ち物に唾を吐く、クラスメートの保護者にも唾を吐きかける、授業中であろうとなかろうとおかまいなく、クラスメートの名前に卑猥な言葉をつけて大声で呼ぶ、などの行動が止まない。ついに小学校最終学年の小6になった。改善の兆しはない。児童Aの体格は大きくなり、恐怖感を与える威力は増大した。

被害を受けた児童は、クラスや学年の半数程度にまで及び、他の学年であっても被害を受けた児童がいる。複数の保護者が被害を受けている。

被害を受けた児童の多くは、「自衛行為」をとるようになる。

児童Aが吐いた唾が届かないように至近距離には近よらないようになる。児童Aが唾を吐く行動に入ったら逃げるようになる。

児童Aが卑猥な言葉を発したら「止めるように」と注意するようになる。児童Aが大きな声で授業などを妨害してきたら「止めるように」と注意するようになる。被害者は多く、暗黙に「被害者児童の仲間」がいるから、怖くても勇気を出して、「止めるように」と注意できるようになった。

児童Aの唾かけ攻撃から逃げる行為や、児童Aの卑猥な言葉攻撃から逃げたり注意したりする行為は、はたして「イジメ」なのであろうか。

学校側も教育委員会も対応に努力をしてきた。児童Aの保護者へは何度も諦めずに話し合いの場を持ちましょうと提案してきた。

児童Aの保護者は、話し合いすら拒否をし続けている。理由は、学校で起きていることの責任はすべて学校にあり、児童Aと児童Aの保護者の側には責任はないというのが、児童Aの保護者の主張だ。児童Aが問題行動を起こすのも、学校の教育や指導や管理が不適切だからだという見解だ。弁護士まで立てて、学校や教育委員会に対して徹底抗戦を続けている。

児童Aの問題行動は学年が上がるにつれエスカレートした。当然の対策として、被害者児童の「自衛行為」も学年があがるにつれエスカレートした。

児童Aの保護者が拒否をするので、唾で汚れた被害者児童の衣服の洗濯やクリーニングは、ついには学校教員がせざるをえなくなった。

事情を知らない第三者や、被害にあっていない保護者や、被害にあっていない児童の目には、この児童Aの行為に対する「自衛行為」が、児童Aへの「イジメ」のようにも見えるようになった。

被害にあっていない児童の中には、自衛行為を止めさせようとする児童(以後、わかりやすく「反自衛行為児童」と呼ぶ)が現れた。当然に、自衛行動をとる児童(以後、わかりやすく「自衛行為児童」と呼ぶ)との間に、軋轢が生まれる。

興味深いのは、「反自衛行為児童」たちは、児童Aと仲良がよいわけでもなく、児童Aの問題行動を止めさせようともしないことだ。ただ単に、「自衛行為児童」への対立行動をエスカレートさせた。

「反自衛行為児童」の中には、実力行使で「自衛行為」を止めさせようとする児童まで現れた。行動をさえぎったり、言動をさえぎったり、挙句の果てには、「自衛行為児童」を殴る蹴るなど、暴力行為にまで及ぶようになり、事態は深刻化した。

ここでも興味深いのは、そうした行動は教員の目の届かない所で頻発しているということだ。、「自衛行為児童」が堂々と「自衛行為」を行うのとは対照的だ。

「反自衛行為児童」の中には、伝統的な不良行為を行う児童も含まれていて、その不良行為の対象に「自衛行為児童」の何人かがなっており、状況をさらに混沌とさせている。「自衛行為児童」の「自衛行為」は、「反自衛行為児童」たちに対しても必要となってしまったのである。

繰り返し何度も被害にあいたくない「自衛行為児童」は、すでに『心理的にも物理的にも苦しいし辛いから』から、自衛行為を止めるはずはない。

しかし、「自衛行為児童」の人数に比べ、「反自衛行為児童」の人数は少ない。ここでも、「自衛行為児童」たちが、「反自衛行為児童」たちを「イジメ」ているとみなす保護者たちが現れ、事態はさらに複雑になった。

学校が荒れているようだと聞きつけた「自衛行為児童」の保護者でもなく「反自衛行為児童」の保護者でもない一部の保護者が、毎日のように学校に現れるようになった。

そして、そうした保護者の中には休み時間などに「自衛行為児童」の「自衛行為」を注意する保護者が現れた。その保護者の目には、児童Aに対する「イジメ」と映ったようである。

イジメの構図を、「多数が一人を」や、「多数が少数を」というように短絡的に捉えると、真実を見誤りかねない。

一人の加害者が、多数の被害者に苦しみを与える構図も、ありうる。
小数の加害者が、多数の被害者に苦しみを与える構図も、ありうる。

企業組織や、軍隊組織などでは、珍しくない。
地域社会や、国家体制などでも、珍しくない。

一人や少数のために、多数が「苦しい思い、つらい思い」を強いられていることもあるのだ。こうしたケースはイジメには該当しないのだろうか。「苦しい思い、つらい思い」をしている多数が、一人や少数に分裂し、見かけ上の少数派になれば、イジメになるのだろうか。

多数の被害者の中に、被害を苦にして自殺や自殺未遂が発生した場合でも、「加害者」として扱われるのであろうか。

さて、

このケースでは、「イジメ」られているのは、誰だろうか。
このケースでは、「イジメ」をしているのは、誰だろうか。

このケースでは、「イジメ」は発生しているのであろうか。

このケースの「被害者」は誰であろうか。
このケースの「加害者」は誰であろうか。

そもそもの原因、根源的な理由を特定すれば、明確になりはしないだろうか。
そもそもの原因、根源的な理由を取り除けば、解決するのではないだろうか。

「被害者」が泣き寝入りするしかない社会であってはならない。

それ以上に、

「被害者」が「加害者」として扱われる社会であってはならない。

加えて、

「被害者の面をした加害者」が、何の咎めも受けずにいられる社会であってはならない。

「被害者」を「加害者」と見誤った人が、何の咎めも受けない社会であってもならない。