[2020年12月3日]
私立大学の定員割れが厳しい。私立大学の学校数における割合で、少なくとも3割以上が定員割れしている。学部だけの定員割れや、退学者が多い実質定員割れまで含めると、私立大学の半数以上が、実質定員割れではないかと思われる。
今の「大卒」は、かつての「大卒」ほどの意味はない。
かなりの数の大学が実質定員割れなのだから、「大卒」の学歴を手に入れるのは、学力の観点からは極めて容易になった。入学金や授業料が払え、就労を開始する時期を遅らせる選択さえできれば、誰でも「大卒」の学歴を手に入れることができる時代になった。
「学歴」や「就学年数」は、ほぼ意味をなさなくなった。現時点において、「学歴」で、有意に違いがはっきりするのは、「大学院卒(正確には修了)」か否か、による違いくらいであろう。
しかし、これも、近い将来に意味をなさなくなるかもしれない。定員割れによる経営難を回避するために、定員割れや実質定員割れの私立大学が、大学院の定員数を増やせば、「大学院卒」も量産されることになり、今の「大卒」のように、誰にでも手に入る学歴になってしまう可能性があるからだ。
国公立大学も、少子化により、かなり入学しやすくなっている。18歳人口は約半分にまで落ち込んでいるのに、定員はほぼ横ばいのままだからだ。公立大学の定員に至っては、私立大学の救済のために自治体が引き取る事例が多く、急拡大している。
東京都の高校生の大学進学率は7割を超えた。実に3人に2人以上が「大卒」になって行く。
しかし、世の中の3分の2が、かつての「大卒」らしい仕事につけ、大卒らしい収入を得、大卒らしい人生を送ることは、難しいだろう。多くは、「大卒」でありながら、かつての「高卒」の仕事につき、かつての「高卒」のような所得を得、かつての「高卒」のような人生を送ることになるのではないだろうか。
「大卒」を量産する今の教育制度には、どんなメリットがあるのだろうか。むしろ、デメリットの方が大きくなってはいなだろうか。
「大卒」なのだから、優良企業に就職して、安定して豊かな暮らしを手に入れたいと望んでも、世の中の7割の全ての人が、実現するのは不可能であることは明白だ。むしろ、「大卒」らしからぬ仕事につき、「大卒」らしからぬ収入しか得られず、「大卒」らしからぬ人生を送る人が激増し、幸福感が広がるのではなく、絶望感が広がることになりかねない。
今や、「大卒」という学歴の価値は薄まった。
今や、「大卒」を目指すだけでは未来はない。
「受験」の目標は、「学歴」ではなく、「中身」に求めなければ、無駄な努力や、無駄な費用や、無駄な時間を浪費することになり、満足度も達成感も損ないかねない。
しかし、この「中身」についての、巷の意見も、かなりあやしい内容のものが多い。
参加することに意義がある?
挑戦することに意義がある?
頑張ることに意義がある?
全力なことに意義がある?
もしそのような観点で論じるなら、対象が「受験」である必要はない。
ピアノでも、水泳でも、絵画でも、いいはずだ。
何のために「学ぶ」のか。
何を「学ぶ」べきなのか。
どう「学ぶ」べきなのか。
しっかりと本質を見極めることが肝要であろう。