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三田学院

[2020年12月12日]

【都立中】記念受験

記念受験という言い方は、国立大学附属小学校入試では昔からよく聞いたが、最近は公立中高一貫入試でこそ、よく聞く。

実は、私立中学入試でも、記念受験する受験生親子はいる。

私立中学入試では「チャレンジ受験」というのもある。しかし、私立中学の「チャレンジ受験」は、合格可能性がそこそこある場合に実行されることが多い。よって「チャレンジ受験」は、合格可能性がほぼない「記念受験」と一緒にするのは適切ではない。

合格の可能性は、ほぼないか、まったくないのに、わざわざ受験するのだから、実に奇妙で不思議な行動パターンである。

不合格になっても大きな打撃とはならないと見込んでいるので、そうした行動をとるのであろう。不合格になると打撃が大きいと認識していたら、あるいは認識できていたら、適切なリスク回避的な思考が働くであろうから、記念受験はもっと少なくなるか、ほぼまったくなくなるはずだ。

行動経済学的に考察すると、次のようになるのではないだろうか。

期待利得>期待損失なら、記念受験は選好される。
期待利得<期待損失なら、記念受験は回避される。

しかし、

期待利得<期待損失を、利得>損失と誤認したときも、記念受験は選好される。
期待利得>期待損失を、利得<損失と誤認したときも、記念受験は回避される。

ここで、利益や損失が、すべて個人の負担とはならない場合に、歪みが生じる。

利益は個人に属し、損失が社会に属する、ときである。

記念受験する人が多いと、問題用紙の印刷、試験監督、採点にコスト(損失)がかかるだけでなく、試験会場周辺と試験会場の混雑や、試験進行のための時間的余裕を大きく取らなけらばならないなどで、記念受験ではない受験生にも影響(損失)が大きくなる。

記念受験生の損失はほとんどないが、記念受験生が増えれば増えるほど、そうでない受験生や、学校や、地域社会などの、損失は増大してゆく。

そこまで正しく認識できていれば、合格可能性がほとんどない受験生や、合格可能性が極めて低い受験生が、本試験会場に足を運ぶことはもっと少なくなるだろうと思われる。

しかし、

個人の期待利益>個人の期待損失、かつ、社会の期待損失>個人の期待損失

のとき、記念受験をする動機を、合格可能性のほぼない受験生親子に、より強く与えることになる。

個人の期待利益>個人の期待損失、だけならば、個人の自由かもしれないが、

社会の期待損失>個人の期待損失、となるなら、個人の自由とは言い切れない。

記念受験は、入学や入学後にかかる費用が小さければ小さいほど、より魅力的となる。

世間の評価は、あなたが思うより、もっと適切で、もっと厳しいということを、記念受験生親子にも知ってもらうしかないのかもしれない。

「どこどこ受けたけど、落ちちゃって・・。」

と吹聴しているのを見かけたら、

「じゃ、どこに受かったの?」
「じゃ、どこに進学するの?」

と、みんなに聞こえるように聞いてあげましょう。

早く気がつかせてあげるのも、親切のうちだから。

本気受験生や、社会を守ることに、なるのだから。

それでも分からない記念受験親子がいるかもしれないけれど。

なにより、世(社会)のため、人(他人)のため、だから。

啓蒙活動にも、社会貢献活動にも、なるから。