[2022年1月17日]
なぜ、都立中に合格できそうにはないにもかかわらず、都立中を目指す親子が、後を絶たないのか。
ずっと疑問に思っていた。
大手都立中受験塾で配布される資料からも、誰でも合格できるような学校ではないことは一目瞭然である。
しかし、合格できそうにない受検生が、いまだ多く都立中の試験会場に足を運ぶという実態がある。
都立中を受検したいという多くの親子と接し、その真意を伺い知ろうとしてきて、1つの仮説が浮かんできた。
子に、学ぶ意義を明確に示せない親が、思いあぐねた末に、都立中受検を学ぶきっかけや理由にすることで、学びの意義を見出せない子に、学びに取り組ませようとしたのではないか、という仮説である。
これは、都立中に合格できる可能性が十分にある子の親にはあてはまらないことを、先に述べておく。
この仮説を裏付ける証拠の一つが「残念なら高校受験でまったくかまいません」という言葉だ。
残念なら高校受験でよいのなら、都立中を受検する動機としては、十分ではない。
さらに信ぴょう性を高めるのは、高校受験でかまわないとしながらも、高校受験のことを調べていないケースが多いことだ。
高校受験でかまわないという意思も、実は怪しく、ただ都立中受検に真摯に取り組む覚悟が十分にはないことを、意図せず白状しているに過ぎない可能性がある。
子の意思だからというのも怪しい。頭脳明晰で、状況分析が適切にできる子でもない限り、10歳になるかならないかの子どもに、都立中受検をすることが、どのようなことを意味するのかを正確に理解することは難しいであろう。親がそう言わせているのだと解釈するのが妥当なのではないだろうか。
学校説明会や学校公開に参加したら、子がそう言いだしたのだと反論をする親がいるかもしれない。しかし、そこへ行くきっかけは最初に誰がつくったかにもよるし、どんな学校にどれくらいの数を連れて行ったかにもよる。
都立中にしか行っていないという場合は、ほぼズボシである可能性が高い。
私立中にも行っていたとしても、都立中とはかけはなれた私立中にしか行っていない場合も、ズボシである可能性が高い。
では、都立中受検を学ぶきっかけや理由にすることは適切だろうか。
不適切とまでは言えないであろうが、適切とするのも難しい。
受検するから学ぶというのは本末転倒していて、学びたいから受検するというのが、動機としては健全であるからだ。
学びたいから受検するというのにも、注意が必要だ。本心からそう思っているかどうかによるからだ。
学びたいと思ったきっかけや理由を確認してみると、本心かどうかは、だいたい判別できる。
大学入試の総合型選抜(旧AO入試)では、「志望理由書」の提出が義務付けられることがほとんどだが、これは動機が本物かどうかを確認するためだ。これに、これまでどのように生きてきたかを示す「自己推薦書」や、入学後にどのような学びに取組みたいかの「研究計画書」まで書かせれば、だいたい本当のところはあぶりだされる。「面接」で鋭い質疑を行えば、こうした出願書類の内容が本物か否かまで判別できる。「専門分野の筆記試験」まで行えば、ほぼ適切に入学者を選別できる。
これに加え、国際系や外国語系学部では「外国語外部試験証明書」を、理工系学部では「数学オリンピックや理科系オリンピックの入賞履歴証明書」などまで提出を求めてくる。高校教員などの「推薦書」2通が必須の大学もある。高校3年間の「成績証明書」まで提出させられる大学もある。これで、ほぼ丸裸にされる。
ごまかせない。
しかも、学力試験のみで入学してきた学生より、入学後の取組が真摯であることが多いというオチもある。
これは、総合型選抜(旧AO)の大学受験指導を積み重ねてきたことから、おおいに学んだことだ。
大学入試における総合型選抜は、従来からの大学院の入学者選抜に近いかもしれないとも思う。
当初、大学入試の総合型選抜では、適切に入学者を選抜できるのかどうか、懐疑的であった。しかし、少なくとも一般選抜の難易度が高く、優秀な受験生が多く出願する大学では、総合型選抜はおおいに機能している側面があるという実態を知り、確信に変わった。
本末転倒した動機では、入学した後に成功できない。その前に入学することさえが難しい。
それ以上に、本末転倒した動機では、あるべき学びは実現できない。
指導するにふさわしいかどうかを判断する上で、動機が怪しくないかどうかは、しっかり見極めたい。
合格指導が成立するかどうかの、重要なファクターになるからだ。