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早稲田育英ゼミナール
福山駅家教室

[2024年2月27日]

周りへの考えが・・・20240227

「自分の行動が、周りの人へ悪影響を与えたり、周りの人に迷惑を掛けないように・・・」
私たち(古い)世代は当然のように、このような言葉を言われて育ってきました。
近年、このような言葉を発言すると「何で、周りばかり気にしなければ・・・」とか「自分は自分。周りとは違う」とか「何でもかんでも周りに合わせなくても、私を尊重して」と色々な意見を頂きます。

「何でもかんでも自分をころして、周りに合わせろ」って言ってるのではありません。
『自分の行動が周りの人たちにどんな不快感を与えているか』『自分の行動が無意識の内に周りに迷惑を掛けていないか』想像・推考しろって言ってるんです。

「自由だ」「個性だ」「人それぞれだ」と何でもかんでも【個】を大切にする掛け声が大きくなり、「唯我独尊」や「傍若無人」が当然の権利の様に振舞う人が増えてきました。
【個は無視して周りに合わせる】ことだけを求めているのではありません。この国で住み、地域で生活していくのであれば社会や周りやルールを無視してはいけないと思うんです。

行政には法律や条例があり、地域にはルールがあり、家庭にも決め事や約束がありますよね。
当然、勉強にもルールがあります。勉強の場合には「ルールは絶対」であり「ルールを覚えてルールを守り、ルールに従って行動・思考する」ことが絶対です。
ところが近年、教室の地域で学力低下や成績不振が大きく目に付き始めて観察していると、これらが出来ない生徒(保護者も居られます)が激増中です。

指示をしても「無視」
作業や提出や返事を求めても「放っとく」
行動や理解度の確認を行なっても「顔色を変えずに嘘」
期限や締め切りに対しての意識が甘い(これは大人も多いですね)
成績低迷の生徒たちからは、これらの行動が当然のように見えます。

「これらの行動をどう思いますか?」と聞くと、『そりゃあ、ダメじゃろう』と皆んなが皆んな答えてくれます。
現実に行なっている生徒自身に聞いても同じ答えを言ってくれます。
しかし、平気でこんな行動をするのです。
それも「何も後ろめたさを感じていない」様に「平気」の様に見えてしまうのです。
逆に成績急上昇中の生徒は「気にしすぎる」ので『少しくらいは気を抜く日をつくれ』と心配で言ってしまいます。

何でこんな行動が【当り前の権利】になってしまったのでしょう?

私が考えるに、今までそれをやっても(無視しても、楽しても、放っといても、嘘ついても)何もお咎めや罰が無かったから『周りに迷惑を掛ける』という感覚や概念が身に付いていないのだと思います。
嘘ついても宿題をやらなくても好きな事(趣味やクラブ)には行かせてもらえる。期限を守らなくても先生や親が裏で何とかしてくれる。先生の指示を無視し続けても痛みや損は無い。親に言い付けられても「ちゃんとするんよ」の一言だけで「ネチネチ」は言われずに携帯やゲームは自由放題。

『宿題が終わって無ければ夕食もテレビも後回し。約束を破ったら1週間〜1か月は何らかの禁止事項を課せられたり一人だけで留守番』の私の子供の頃の罰は、暴力や虐待だったのでしょうか?
イヤイヤ、それで先生や親を逆恨みしたことなどありませんでした。
学校で「ビンタ」された事など、絶対に家では言いません。言えば家でも二回目が待っているからです。

自由や個性を否定しているのではありません。
「ルールを守って社会生活を送る」「他人に迷惑を掛けない」当り前のことが出来ない人が社会に出れますか?社会には「違反」「罰則」「賠償」「謝罪」が当り前に存在します。
いつ教えるべきですか?