[2024年8月19日]
予想していたよりも素早く、「何で、こんな時だけ返事が速いの?」と思うスピードで、早速ご意見(?)クレーム(?)を頂戴しました。ありがとうございます。
「結果を考えず、頑張る姿が美しいんでしょ」
「子ども達の頑張っている気持ちを大切にしてやりたい」
「学生時代や若い時には、結果を考えずに突っ走るから素晴らしいんでしょ」等々です。
その通りです。言われる言葉に間違いはありません。私もそう考える“場面も”あります。
ただし、「じゃあ、その結果は、すべて満足して受け入れられるのですね」の条件が付きます。
「受験や学校の成績」「友達の〇〇ちゃん、近所の◇◇ちゃんよりも何で家の子がこのレベルの学校なの?」との色々な思いを、直接もしくは暗黙に回り道して私たちに伝えてこられた経験もあります。
「頑張ったんだから…」「私は家の子を100%信じて」で、どんな不本意な結果でも全て受け入れられますか?
近年は「家の子は…」「私たちは…」「お金を払ったのに…」「あの塾ダメね」「先生の進路指導が・・・」「宿題をするように指導するのも先生の・・・」と、何でも他人や周りのせいにして、文句だけ言い続けて思い通りにする風潮がありますよね。
『だからですよね・・・』と思ってしまいます。
じゃあ、逆に「勉強してる」「頑張ってる」って人にお聞きします。
「何を」「どのように」「どれくらい」やってるからの自信ですか?
近年、多いのは「聞いてる…」「間違えた問題の答えは聞いた」「書いた」「宿題は自分の出来る範囲でやった」「知らない英単語はしょうがない」「〇〇時間“も”机に向かってた」を主張する場面が激増です。
ひどいのは「学校に行ってるのに勉強ができないのは先生の・・・」「クラスの平均より上なのに、何で〇〇高校を受けられないの?」等です。
基準や比較する対象を間違えているので『違うよ』と指摘すると「そんなことは無い」「失礼な」「私が学生の頃は…」と更に厳しい言葉で反論が返ってきます。
「私の学生の頃…」は時代も環境も根本が違ってきてるので置いときますね。
「聞いてる」「書いた」は、私が度々使う『保育所の塗り絵か』です。「書いたから何なの?」「埋めたから何なの?」「答えが分かったから何なの?」先生が黒板で説明した『そのままズバリ』がテストに出るのは、地元の小・中学校だけです。当り前の「テスト」は初見の問題がどれほど解けるかを観るものです。
受験の問題で、過去問とそのままズバリや先生が一度説明した問題が出ることはありません。
つまり、「聞く」「書く」は勉強ではありません。勉強をするための準備運動です。家庭で「理由や根拠が分かる」「用語や単語を覚える」からが勉強のスタートです。『学力が上がる』とはその知識を使って、初見の問題が解けるようになる力が付いたことです。いつまでも幾らでも永遠に聞き続けている生徒は「勉強している」とは言わないのです。
一方的に説明を受けたら全員が成績アップするのなら、東京のスタジオから衛星回線を使って授業をしてもらえば、全員【東大】合格ですよね。
さあ、ここまで言うと「勉強が全てでは無い」と又々反論がきます。じゃあ、何故、私たちに「勉強を求められるのですか?」
あれほど強気で反発や無視していた生徒が突然「あぁ、もう私は無理だ。私はやっても上がらないんだ」と急に心がポッキリと折れてしまう子が増えました。意地を張るだけ張って、我儘を許すだけ許して貰ってきたので、素直に聞いて我慢をする習慣が無いのでしょうか。
頑張る姿勢や頑張る心は大切です。もちろん、全てが思い通りの結果になるとは限りません。しかし、アドバイスや指摘に対して本気で意識して本気で行動したかどうかは「結果」に表れますよね。