[2025年4月13日]
皆さんは「right」と言えば「権利」と訳せ!「権利」と言われれば「right」だよ!と当然のように教わって育ってきたと思います。もちろん私もです。
しかし、近年「権利だ」「自由だ」「人それぞれだ」と自らの【利】だけを主張する使い方に辟易・うんざりしていました。
ところが今日、ある勉強会に参加した時、驚くほど新鮮な情報を聞きました。
昔から言われていたらしいのですが私は知りませんでした。ご存じの方は聞き流して下さい。
江戸時代に鎖国を行なって途絶えていた外交が、明治時代に再開されると、外国語の翻訳語が次々に作られました。
その中で啓蒙思想家の西周(にしあまね)が「哲学」という言葉と同じころ、英語の「right」を「権利」と翻訳したのです。当時は「力ずくで得る権利」という使い方をしたようです。
しかし、かの「福沢諭吉」は翻訳不可能としたそうです。
もとより、「right」は『右』であり『正しい』です。つまり、まっすぐな正義としての訳になるはずだったのです。
福沢諭吉は「権利」ではなく「権理」と訳すべきだと主張したのです。
その根拠は、権力や権限は、道理や公共の福祉に基づいて行使されるべきものであり、個人の利益や欲望に基づいて主張されるべきものではないという考え方にあります。
福沢諭吉は「right」の概念を権利では無く「権理」あるいは「権理通義」などと訳し用いています。「通義」とは文字通り「義に通ずる」意味で、すなわち(道)理を意味します。
つまり天下公益、現代的に言うなら「公共の福祉」に適う=理に適った社会の在り方を追求するために必要な権力・権限こそが「right」であるといっているのです。
現代多くに使われている「権利」には『自分の利益や欲望を満たすために他人や社会に対して要求する』が大きく含まれていると感じていましたし、【利】は損得や自分だけが手にすればよいとの考えを感じて違和感を感じていました。
近年、必要以上に主張される方の使い方に違和感を感じていたのは、この個人だけの【利】だったのです。
しかし「権理」「権義」と聞いて「あ〜ぁ、私だけが間違っていたわけではなかった」と安心しました。
かと言って、西周氏を批判・否定しているのではありません。
現代人が、色々な言葉を自分の都合だけで歪曲して使っていることを憂いているだけです。
例えば、自由や多様性もその一つです。この話は、また別の機会に・・・。