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早稲田育英ゼミナール
福山駅家教室

[2025年4月22日]

プライド(誤判断)からの無視?20250422

ず〜〜っと以前から「近年の生徒たちは、私たちの指示や注意を平然と無視する」とお話ししてきました。
「えぇ〜っ?」と思われる方も居られると思いますが、当然と言えば当然です。
「生徒の気持ちを優先して・・・」「大人の考えを押し付けるな」「人それぞれ・・・」「個性」「自由」「家の子を信じて・・・」「家の子は決して・・・」「頑張っている」「先生が生徒に大人げない」「体罰は絶対ダメ」等々、生徒がどれ程間違った勉強法や行動を取っていても『生徒に罰は・・・』『生徒を認めて・・・』の社会風潮や行政のきれい事(現実に学力が下がっている)をそのまま信じている生徒や保護者が自らを過信しているからだと思います。

教室開校当時の生徒の『無視』は、本人の「楽」「別に・・・」「何とかなる」等の悪意(言い方は悪いですが)や我がままによるところが大きかったと思います。大人や親や先生も厳しく注意していました。当時の生徒は「自分で決めた自分の意志」で無視して思い通りに振る舞っていました。

ところが、十年くらい前になってくると、「先生は叱らない」「親も、あなたの思うように・・・と、許してくれる」「別に罰は無いし…」「先生から攻撃してくるはずはない」「最後には親が何とかしてくれる」「別に勉強は出来なくてもクラブには行けるし携帯は買ってくれる」等の自分に都合の良い理解が当然の風潮になり、何でも楽して放っとけば良いとの風潮になりました。
以前からの「悪意の無視」の存在も継続しつつ、「甘ちゃん」や「赤ちゃん」的な【幼い無視】が
急激に台頭してきました。

そして、近年の「無視」です。
生徒たちの学力の低下が現実の数字となって見え始めて数年が経ちました。
決して先生たちの指導力不足やサラリーマン教師が増えているのではありません。教科書も、あれ程カラフルで分かり易く工夫されています。しかし、下降しているのです。何故でしょうか?
勉強とは、聞くことから始まって、利用して組み合わせられるようになることが目的です。しかし、近年の生徒たちを見ていると、分かって覚えて利用すること無く「何かこんな感じ」「こう書いとけば良いんでしょ」「(少し形が変わると)こんなん習ってない〜」と【埋めて】【丸をもらう】【私は書いた】【先生は、これしか言わなかった】ことに意識の大半が向かっていて、数年後に使える事よりも、目の前の高得点や丸を獲得して【褒めて貰う】ことに注力しているのです。
学校でも、多くの生徒が先生の指導に従ってくれなくて平均点が目に見えて下降しています。
すると保護者から「先生の教え方が悪い」とかのお叱りが増えます。先生にすれば、平均点を上げることと、生徒の授業態度向上のためにテスト問題を異常に簡単にしています。

さて、ここからが問題なのです。
本当の実力以上の得点が『図らずも』取れてしまっているので、自分(我が子)の実力を過信・過大評価しているのです。事実、学校のテスト93点でも模試で偏差45なんてのもありました。
何故なら、「何故そうなるのか」や「用語の理解」等の【根拠】が雑で「先生がこう言ってたからそう書けばよい」との小1レベルの勉強意識を継続しているからです。
【違うよ】と具体的に修正事項を指導するのですが、「そんなことは無い」「学校で、あんなに高得点なんだから、私は正しい」と中々受け入れてくれません。
その後、この生徒が運良く第一志望の高校に合格できてしまったら最悪です。
高校になってもこの「聞いて・そのまま書けばよい」「分からなければ聞けば良い(根拠や理由では無く、答えやテクニックを)」を続けているのですから、大学受験は大変です。
こんな生徒たちは「私は頑張っているのに・・・」と言いますし、こんな生徒たちの保護者は「何であの高校に入ったのに学校はチャンとしてくれないの」とか「家の子〇〇高校ですよ。何で国立の◇◇大学じゃないの」「もっとちゃんと塾でやらして下さい」とのお叱りまで。高校無償化の影響で、ほとんど届きそうにない公立高校にチャレンジ(と言ってますが、現実はギャンブル)で受験しておいて、ギリギリや定員割れで合格してしまえば余計、私たちの言葉は邪魔ものです。

これは全国的な傾向なんでしょうか?それとも教室のある地域の「地域性」なんでしょうか?