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早稲田育英ゼミナール
福山駅家教室

[2025年10月8日]

「自由」「人それぞれ」と「ネット社会」の弊害20251008

「自由」「人それぞれ」と「ネット社会」の弊害

映画「俺ではない炎上」を観てきました。
一言で言うと「ネット内の無責任が作り出した冤罪」を描いた映画でした。

「自由だ」「人それぞれだ」「それぞれを認めろ」と言われだして長いです。
確かに「自由」です。しかし、「誰に何をしても良いわけじゃありません」
確かに「人それぞれ」です。しかし、社会のルールや他人に迷惑を掛けることでも何でも許されるわけではありません。
確かに「多様性」「それぞれを認めて」いかなければなりません。しかし、各自が思ったり感じたことは何でも『思い通りに』『叶えてもらえる』こととは別物と思います。

近年、「綺麗ごとの号令」の大合唱で、誰も指摘も注意もしなく(できなく)なってしまいました。
一番の問題は、【全てを受け入れろ】の風潮の中で、やっている本人に自覚が無いことです。
自分の頭に浮かんだことを全て主張し、相手の立場や事情や気持ちよりも、自分の気持ち・感情を満足させることが最優先になってしまっていることです。
「私が教えてやらなければ・・・」「私が制裁を下さなければ・・・」と本人は思い込んでいて、さも「世界警察」のような振る舞いをしているのを見たことがあります。
相手が聞かなければそこで止めれば良いのですが、この「世界警察」は更に過激な方策をこうじてきます。
街中でのたばこのポイ捨てやごみのポイ捨てはダメな行為です。注意すべきです。しかし、それらを投げ付けたり無理やりカバンに押し込む行為は如何なものでしょうか。

万が一、その人では無かったときには、平謝りしてでも許しを請うのでしょうか。
私の知っている事例では、言い訳や誤魔化しや開き直りによる事後変更を堂々と主張し、少しも「詫び」の心が見えません。

かなり以前、「松本サリン事件」ってのがありました。当時の世論やマスコミは、「犯人確定」として行動していました。
事後、間違いだったことが判明しても「私たち“も”報道の在り方を考えるべきです」と他人事でした。現代でも、そのような『決め付け』や『正義ぶった』『偏向の』報道が続いています。

「叩きやすい人」「反撃して来ない人」「無名人」を寄って集って叩くというのは、権力者に媚を売り、金持ちに擦り寄り、自分の損得や気分を最優先していませんか。
【イジメ】の構造と何も違わないじゃないですか。

話しをもどします。
「自由」「人それぞれ」「多様性」の言葉の意味や本質を考えもせずに、自分の都合のよい方に捻じ曲げて使っている人が多過ぎです。
典型的な言葉が「平等」と「公平」です。
「努力もせず、結果だけは同じものをくれ」なんて、【私は〇ホです】と世間に言って歩いているのと同義です。
更に、匿名性を利用して、ネットで無責任な発言を繰り返す。違っていても「知らんぷり」酷い輩は「ほら、私は前からそう思っていた」と手のひら返し以上で、恥という感覚も持ち合わせぬ、人とも言えぬ人を作り出しているのです。

理解できていない人の匿名の発言や、根拠の無い他人への中傷発言は認めないべきです。