[2014年6月20日]
今回は少し長いです。覚悟して読んで下さいね。
成績下位者の話です。
今の子どもたちの「私は、ちゃんと聞いている」の言葉の中身と、お母様方の認識している「聞いている」には大きな違いがあります。
ですから、子どもに「ちゃんと聞いてるの?」とか「分かった?」の答えに「うん、分かった」とか「ちゃんと聞いてる」と言われたからって、100%額面通りに受け取らないでください。
お母様方の「聞く」には⇒「分かる」⇒「実行する」の方程式が成立しています。
しかし、今の生徒たちの「聞く」は、「入ってきた音の中の好みの音か、たまたま努力しなくても聞き取れた音だけを受け取って、その他の大部分は流してしまう行為」を言います。
ですから、内容などを聞き取る努力をするはずも無く、「音が聞こえた」ことを「聞いた」と言います。ですから「ちゃんと聞いてる」と言われて安心しないで、どこまで聞こえたのかを確認しないと安心できません。
内容の大部分が聞こえていることを確認して初めて「ちゃんと聞いた」が成立します。もちろん「分かった」かどうかは、また別の話です。
「聞いた」けれど、自分が納得できない内容の時には大部分をスルーします。反発したり反論したりしてくれると、まだ可能性もあるのですが、完全に「放っておいて、スルー」するのですから、時間が経たないと分かりません。ですので、「分からせる」とは「納得させる」ことであり「我慢を覚悟させる」ことです。嫌々「分かる」ということはありません。嫌々の時には、いくら「分かった」と言っていても、大抵実行しません。何故なら「スルー」は最高の特技なのですから。
次に「実行」ですが、指示した人の真意を考え、それを実現することを「実行」と言いますが、今では「やってる風」や「やったことにする」や「やってるつもり」ひいては「これ位やったら怒られないかな?」が実行の基準です。結果を意識などしていないのです。何故なら「頑張った」とか「結果より、頑張っている姿が大切」との綺麗事に守られているからです。
何故、こんなことになってしまったのでしょう?
私の想像では、真剣に、必死で一生懸命聞かなくても、「大人は何度でも言ってくれる」「何度でもチャンスをくれる」の実態が、生徒たちから「一生懸命聞く」の必要性を奪ったのでは無いでしょうか?
「分からない」も、生徒が自分で考え「分かろう」と想像しなくても、「生徒が分からないのは、先生の教え方が悪いからだ」とのマスコミの綺麗事論調を真に受けた保護者が、生徒にもそれを言うからです。「分からない」は聞かなくても良い、覚えて無くても良いの錦の御旗に成り下がっているのです。
勿論、「実行」などする筈もありません。何故なら「実行しなかった時の『罰』や『痛み』や『困ったこと』が少しも無いのに、我慢して実行する大師のような徳の高い人など、そんなには居ないでしょ?」です。
つまり、「言った」から「家の子は分かって、やってくれるはず」は、社会が求めていないのです。社会は「許してやれ」「認めてやれ」「要望を聞いてやれ」の耳障りの良い言葉で目の前の難題に向かわせないで、助けてやるシステムだけを作り上げてしまったのです。
大切で可愛い「家の子」だからこそ、どうするべきか?
個人的には答えに辿りつきましたが、皆さん全てに該当するか?
永遠の??????が結論です。