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早稲田育英ゼミナール
牛川教室

[2013年7月15日]

特訓開始

最近やたら話が長いので恐縮です(笑)
今回も長くなってしまいました。

今回成績不振だった高校生に、先週から特訓開始しました。
受験生ということもあり、時間が残されておりません。
前回の日記にあった方法ですが、鉄板のやり方でもあるので実施させています。
休日を除き、ほぼ連日塾へ来てもらって指定した問題集をやらせています。
※問題集は担当講師と一緒に選定し、レベルに合わせたものにしています。

3周やらせる方法ですね。

これ実施にコツがあって、単元ごとに区切りのいいところで答え合わせしたくなるのですが、そうはさせない。
一冊単位で一気に全問アタックかけてから答え合わせさせます。
全体の中で自分はどこの問題が解けなかったのか、苦手なのか、間違えたのか、これを把握してもらう必要があるからです。
その上で解答解説をよーーく読み込んで、前回できなかった問題に再アタックかけます。
当然、一冊単位です。
スピード感も必要なので、「1週間で全部解いてきなさい」というかなり強引なスケジュールですが、それくらいやらないと補強なんていえないでしょう。
したがって、ほぼ連日通塾して自習スペースで頑張ってもらっています。
解答や解説を読み込んで、参考書も読んだ上で、それでもつかめないところを授業で理解させている方法にしております。
これまでのように、授業で問題を解かせて解説し、宿題を与えるようなやり方では足りないと判断しました。
個別の悪いところは、講師との距離感が非常に近いので質問しやすい反面、授業で「分かった気」になって帰ってしまうことによって生徒が理解を深める自助努力を怠りがちになることだと思います。

今回の三者面談を含めて生徒に聞いてみたのですが、「何のために復習をするのか?」という質問に対して核心の回答をしてきた者はいませんでした。
保護者も同様です。

ここをお読みの方も一度考えてみてください。

Q.どうして復習が大事なのでしょうか。

以下の回答が一番多かったものです。

「理解を深めるため」
「解けなかった問題を解けるようになるため」
「知識の定着を図るため」

確かに、間違ってはいませんが、核心ではないと思います。
私が思う理由は、「新しい発見ができるから」です。
たまたまユダヤの人々の教えがそうだという話も聞きました。
ただ、私自身の経験でも同じ体験しているからなんですね。
前回の日記に何をやったか書いてます。
それを一言でいえば「新しい発見をした」なんです。
うまい表現ですので使わせていただきます。

本当に理解している問題なら、他の人へ教えるレベルでしょうし、いろんな角度から質問されても困らないでしょう。
単純に正解への思考ルートができあがっているだけなら、「それが答え」と解いてみせるまでは可能でしょう。
でも、いろんな角度からの質問に答えられるには至らないと思います。
そういう意味では「理解を深める」という理由がもっとも近いのですが、もっと積極的な意味で「新しい発見がある」と表現すべきだと思います。

実際、問題集を解く作業やドリルをこなすなんて自習は海外では自ら「勝手に行う」レベルの話です。
肝心なのは、「どうしてこうなった」「なぜこうする必要があるのか」という思考にあります。
テストの現場では時間制限もあれば正誤を判定するという目的から「スピード」「精度」が求められます。
当たり前ですが。
これは、鍛えるしかないのでドリルや問題集をこなすことが近道でしょう。でも、これは作業レベルの話。言葉はよくないかもしれませんが、「勝手にやる」くらいのものです。
自信がないなら、それは本人が一番分かっているのですから、とっとと取り掛かればいいのですが、なかなか腰が重いようです。
勉強なんて嫌いな人が多いですからね。

ここが違いとなってきます。

苦痛な作業と体が思っている以上、脳は拒否します。
なかなか覚えません。
そのため、苦行でもガンガンやって成績があがることが出来れば成功体験になりますので、ある程度の学習習慣をつける方向性に対しては有効な考え方と思います。

本質的に、それだけでは厳しいかと思います。

したがって、学習することで「新しい発見」「ひらめき」を得るという本来の知識欲を満たす行動がカギではないかと考えております。
まず、スタートラインとして「なんでできなかった?」という位置からですが、「どうしてこうなった」「自分はどうしてこういう解答をしてしまったのか」(間違えた理由といいますか)。思考順序や記憶の誤りを見つけることが第一歩でしょう。
そこからのアプローチとして、苦行としての道を選ぶのか、知識欲を満たすような方向性を選ぶのかで先々の定着と理解度は変わっていきます。
むしろ、教科書の問題だけは解けるのに、応用問題等で簡単にひっかかるような人は苦行の道を選んだのではないかと思われます。

そこで、長時間にわたって悩ましい思いを抱えながら勉強すよりも「分かる問題はとばす」「間違えたところを徹底して考える」「どうして間違えたのかを理解する」「こういう解き方が思考手順として正しい」「覚え方は人それぞれ」「ああ。こういう角度から考えたなら正解したのか」「ここに勘違いした」「ここはよく間違えやすい。自分はそういう類の間違いを犯しやすいタイプなんだ」・・・

発見の在り方を類型的に説明するのはナンセンスかもしれませんが、本人による気づきを待つにはポイントを絞り込まないと時間が足りません。
したがって、長時間の苦行を強いることなどからも回避するためには、ある程度のスピード感は大事でしょう。
人は我慢に対してどこまでも耐性があるものばかりではないでしょうし。
勉強は修行みたいな感覚で行う人も多いでしょうし、こういった苦痛を乗り越えてこそ一人前というような見方も多い気がします。
「みんな頑張ったのに、なんであんたはできないの?」
そりゃ、できませんよ。
苦痛の記憶しかなければ、逃げたくもなります。
それでも机に向かって、学校でも塾でも授業を受けて、宿題や課題を完成させて、耐えているわけです。
気の毒に思います。

目的意識の顕在化だけではモチベーションを向上させる効果は期待できますが、苦痛への耐性や継続への効果は薄いと思います。
一般的に「心が折れる」といった具合です。

受験などで差し迫った状況で、焦りが苦痛を追いやることは分かりきっていますが、それでもやらない人がいるのは勉強が相当な苦痛だからでしょう。

さて、私の知人に脳認識の分野で活動している人がいます。

この人は本当に好きなことしかしません。
生きているのが楽しい、遊ぶために仕事する!と実践しています。
相応の稼ぎもありますし、超有名大学を「つまらん」の一言で退学して外国の大学へ入学してしまうようなご仁です。
そこは卒業しましたけれども。

結局、人は嫌なことはできないものです。
何かしら、せめて嫌じゃないレベルでなければ続くものではないと思います。
逆に何とか続けたいという思いがあれば、よほどのことがない限りは続けられますし、いったん停止しても別の機会に再起動させるものです。

余談でしたが、勉強が嫌=当然復習もやらない、この図式は悪循環の典型例でしょう。
ここを改善させるには、スピード感(我慢時間を短くする)、分かる分野をを拡大させていく、知っていることを増やす、それらを脳内でリンクさせる、既存知識と新規知識と比較する、脳内で整理整頓する、試してみる、不具合をみつける、・・・
この作業の中で「ひらめき」や「新しい発見」があれば、面白くもなると思います。

私の妹の場合も高校時代に突然数学で100点を取ってきたことがありますが、よく話を聞いてみると「友達同士で問題の出し合いが友達の内でブームになり、それが張り合いになって、競争が楽しかった。テスト期間が待ち遠しかった」なんて殊勝なことを言ってました。
その直前のテストでは全科目30点台すら取れなかったのに、驚いたものです。
いきなり優等生?でもないですね。
数学だけでしたから(笑)

ここにヒントがあると思います。

彼女は苦痛から脱却できたわけです。
ノーミスが100点です。
これは、相当注意深くやらないといけません。
どんな簡単な問題でもケアレスミスは可能性としてあるのですが、それを回避できたのは、テスト中どんな気持ちで臨んでいたのかが大事なポイントかと思います。
絶対に100点取るぞ、という気持ちもいいですが、解くのが楽しい人にとってテスト問題とにらめっこすることが苦痛なわけないのです。だからテスト時間中ずっと問題を見ていたそうです。
「見直しチェック」なんて気はなかったそうですが、結果的に同じ行動をしていたわけです。だから100点。
「あきらめずに最後まで」ではなく、「もうちょっと別の角度から考えてみるとどうなるのだろうか」と考えながら問題とにらめっこして時間を過ごす。結果的に「思考手順のミスを点検する」行動です。
苦痛でもなんでもなかったそうです。
むしろ、テストが終わった直後は教科書を開いて、自分がテスト中に考えた内容が書かれているのか、正しいのかどうか、教科書や参考書の中を探したそうです。もちろん友達とも話し合ったそうですが、これはなかなかの知的活動ですよね。
テストの問題以上に探究しているわけです。

成功事例の披露みたいな話が続いて恐縮ですが、勉強できるできないではなく、知識欲や探究心を刺激するきっかけが方法論として万能に確立できない理由もここらへんにあるように思います。
したがって、塾ではなかば強制的にベクトルを変える役割があるのではないかと思っています。
その取り組み方法の一つが短期間での問題集3周であり、授業中の時間の使い方の変更であります。
幼稚な質問で時間を使うのはもったいないです。
復習の「新しい発見」により、そういうレベルの質問は自分で解答を見つけることはできます。
その世界観を超えたところへのアプローチが、本当は楽しいのではないでしょうか。

とはいえ、そこまでは強制的にスケジュールを組んで問題集にアタックさせるわけですから、第一関門は修行スタイルですけどね。
修行期間はなるべく短いほうがいいです。
しっかり実践することで、知らない世界観を知るための質問ができるようになります。子どもの脳をあなどってはいけません。
むしろ、中高生レベルで脳に大差はないそうですし。
そうやって、先生や講師の使い方を学んでいくことで、大学に行く意味も深まるかと思います。
あとは、どれだけ考え続けることができるかという「脳の体力」「脳のスタミナ」(うまく表現できませんが)を鍛えていけたらと思います。
生きていく上で、思考停止こそ一番危険だと思いますから。