[2011年7月31日]
吉田松陰に学ぶ
吉田松陰、幼名虎之助、文政13年(1830)8月7日、長州(山口県)萩の松本村に生まれた。山鹿流兵学師範の叔父・吉田大助の養子となり、兵学師範を継承し、数え11歳のときには、すでに藩主を前に講義をしている。安政元年(1854)には、ペリーの率いる米艦でアメリカへの密航を企てて捕えられる。出獄後、松下村塾を開き、人材の育成にあたるが、幕府の通商条約調印に憤り、尊皇攘夷を唱え、再び囚われの身となる。そして、安政の大獄によって江戸伝間牢の刑場で処刑された。安政6年(1859)、数え30歳のときである。
松陰の思想については、今日、批判も少なくない。しかし、一個の人間として、松陰が激動の時代を奔馬のごとく生きたことは間違いないし、迫害を覚悟で、死をも恐れず、自らの信念を貫き、幾多の人材を残した彼に学ぶものは少なくない。
その一つは、逆境のなかで人間としての光彩を放っていったということである。
松陰は、下田沖に再来した米艦で海外密航を企てて失敗し、江戸伝間町の牢に投獄された後、萩に連れ帰られ、野山獄に投じられる。数え25歳のことである。
野山獄は、士分の者を収容する牢で、獄内での生活は比較的自由ではあったが、光も満足にささず、厳寒、酷暑に責められる獄舎であることに変わりはない。
松陰はここを、勉学の格好の場として、徹底して読書にいそしんでいる。入獄から出獄までの14ヶ月間の読書は600冊。歴史書をはじめ政治、経済、時事、小説、詩など万般に及んでいる。著作も『幽囚録』『野山獄分稿』『回顧録』など相当数にのぼる。
そして、特筆すべきは、獄中の囚人たちと時事を論じ、希望者を集めて『孟子』の講義をしたほか、句会を開き、更に、書に秀でた者を説き伏せて教師とし、書道講座まで行っていることである。この句会には牢番も参加し、彼の講義は役人さえも傾聴している。
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さて、当時、野山獄には、11人の囚人がいた。最高齢者は70代半ば、平均年齢は40代半ばで在獄は平均10年を超えている。松陰は最年少である。牢生活のしきたりとして、多くの雑用も、彼が引き受けなければならなかった。
その松陰が、なぜ、獄中の指導者となり、周囲の尊敬と信頼を得るにいたったのか。
もちろん、教えるに足る豊富な知識を持っていたからであることは言うまでもない。しかし、そうした豊富な学識よりも、彼の人柄、人格によるところが、大きかったといってよい。こんなエピソードがある。彼は入獄後ほどなく、ともに海外密航を企て岩倉獄に捕えられていた弟子の金子重蔵が、病のため獄死したことを知る。その時、何日間かの食事から汁と菜を省いて資金を作り、遺族に贈っている。ただでさえ貧しい食事である。その食事の一部を何日間にもわたって削り、亡き弟子を弔おうとする律義さ、誠実さに、
周囲の誰もが心打たれたであろうことは想像にかたくない。
獄中の松陰は、囚人一人一人に心を砕いた。病人があれば、自ら治療法を研究して尽力したり、互いに助け合っていこうと提案して月掛け貯金まで実現している。そして、囚人たちが自暴自棄にならないように、ある場合には自分の書いた論に対する意見をもとめ、ある場合には、書物の回し読みをすすめた。
松陰は、獄中の人々にとって、初めて接する、人間的な包容と温もりを持った大きな存在であったのである。
行動で範を示す
安政2年(1855)12月に野山獄を出獄した松陰は、松下村塾を開く。
塾生の身分はさまざまだった。藩士の子もいれば足軽の子もいた。さらに農民、商人の子供も入塾を許可された。不良青年といわれた者までもがここに通ってくるようになった。
当時、藩校として明倫館があった。しかし、入校は藩士の子弟のみに限られている。足軽やそれ以下の身分の師弟である青少年には、学問の道さえ閉ざされていた。それがいかに青年たちの無気力化をもたらしたかは計り知れない。松下村塾は、そうした多くの青少年に、学問の門戸を開いたのである。
ここでは、すべての身分の者が平等に扱われた。藩士の子と農民の子の間でも対等な付き合いがなされ、友情で結ばれていった。身分によって厳しく分断されていた社会のなかにあって、それは制度を超えた、まったく新たな小社会の創出であった。彼は、その広範な人間の連帯こそが、時代を変革するエネルギーとなることを知っていたにちがいない。
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松陰は、塾生の身分を問わなかっただけでなく、年齢さえも、問わなかったようだ。多くは十代と二十代前半で、平均年齢は17,8歳であるが、なかには9歳の者や30代半ばの塾生もいた。それが同じように机を並べて学ぶのである。実にほほえましい光景であったろう。また、月謝の類は取らなかった。弁当を持ってこない通学生にはしばしば食事が振舞われている。
そこでの授業は、きわめて独創的なものであった。どこまでも個性、自主性を重んじた。ある者は『日本外史』を学び、またある者は中国の史書を学んだ。国学に熱中する者もあれば、詩文集に取り組む者もいる。塾生の学習時間も一定ではない。時間割もなかったようが。明倫館に通い、夜になって、通ってくる者もいる。
そのなかで、松陰は、よく塾生の間を回り、一人一人と対話し、こまやかにアドバイスした。彼のすわる座は、固定されていなかったし、講義のための見台もなかった。また、松陰はこの塾舎で起居し、行動をともにしながら、人間、社会のあり方を教えている。ときには、塾生とともに草むしりや米つきをしながら、読書法や歴史の講義をするのである。
安政5年(1858)3月に、塾舎を増築したが、これは松陰をはじめ塾生が力を合わせて、自力で建てたものだ。彼は、こうした一つ一つの作業をとおして、相互扶助、協力の大切さを教えていったのだ。
松下村塾には、塾としての整った環境条件は、なにひとつなかったといっても過言ではない。しかし、松陰という稀有の師がいた。それが唯一の、そして最高最大の環境であった。
一人一人の才能を開花
松下村塾の塾生たちの最大の楽しみは、夜になって開かれる松陰の自由講義であった。そこでは教科書のたぐいは使われず、彼が全国各地を見て回った実践のうえで得た豊富な知識をもとにして、自由闊達論が展開された。時勢を論じ、諸外国の情勢を論じ、また、それに対する幕府の無力な対応を嘆き、外国文化に目を開かぬ旧態
依然たる鎖国的姿勢を鋭く糾弾した。それは、深夜に及ぶこともあったし、さらに、夜を徹して議論し合うこともあった。
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すべてが生きた学問であり、そこでは明日の世とわが身のあり方とが完全に溶けあい、学ぶことはすなわち生きることであった。
松陰は全情熱を傾けて、日本の未来のために何をなさねばならないかを考え、語り、訴えた。つまり、学問のための学問ではなく、実線し、行動することを教えたのである。
彼は、必ず入門を希望するものに「何のために学問をするか」と質問する。「書物が読めないので、稽古してよく読めるようになりたい」との答えが返ってくるといつもこう言った。「学者になって
はいかぬ。人は実行が第一である、書物などは心がけさえすれば、実務に服する間には、自然に読めるようになる」と。
また、彼は、人間の隠れた才能を見出す優れた眼を持っていた。さらにそれを引き出す力にもたけている。
あの野山獄にあってさえ、彼は囚人一人一人の高く評価すべき能力を発見し、ある者には俳諧の師匠をやらせ、偏屈者とされていた富永有隣には、書道を担当させている。松陰は、野山獄を出たあと
有隣のために釈放運動を展開し、放免になると、松下村塾に教師として迎えている。
久坂玄瑞には、“年は若いが、志はさかんで気も鋭い。しかも、その志と気を才で運用する人物である。自分は以前から、わが藩の若手の中では、第一流の人物であると推奨してきた“と述べている。
また、性行はじゃじゃ馬のごとく奔放きわまりない高杉晋作に対しては、このように語っている。
“自分は昔、同志の年少の者の中では久坂玄瑞を第一と考えていた。その後、高杉晋作を得たのである。晋作は有識の士ではあった
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が、学問はまだ充分ではない。だが、自由奔放に物事を考え、行動するところがある。そこで自分はあえて玄瑞を推奨して晋作を抑えるようにつとめた。
晋作ははなはだ不満であったようだが、やがて晋作の学力は大いに伸び、議論はますますすぐれ、同志もその言に従わざるをえなくなった“
晋作の性行を見抜き、いかに的確な指導をしてきたかがよくわかる。
松陰は言う。
「人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない」
そして、「天から与えられた金の純度を高めることが修養努力であって、われわれの学問の責務もここにある」としている。
松陰の人を見る眼には、万人が純金を必ずいだいているとの強い信があったということを忘れてはならない。だからこそ彼は、不良といわれ、村人たちから疎んじられていた市之進、溝三郎、音三郎の入門も許し、薫陶したのである。
触発力の源泉
松陰が松下村塾で教えていた期間は驚くほど短い。庭内の小屋を改造して、独立した塾舎を持ってから1年。近隣の子弟のために講義を始めてからでも2年余にすぎない。兵学師範であったころからの弟子を別にすれば、松陰に教えを受けた者の多くが、2年に満たない。1年未満、半年未満の者も少なくない。それにもかかわらず、なぜ、あれほどの感化力を持ったのであろうか。
松陰は実践、行動、生き方に直結した生きた学問を教えた。また、一人一人の可能性を見出す眼や、教育への大情熱を持っていた。
しかし、それだけではない。ひとつには、彼の人への接し方を見逃してはならない。松陰は、塾生の人格を認め、年少の彼らにも礼をもって接していた。それは、言葉遣いにも明確に表れている。彼は弟子たちを「あなた」と呼んだという。また書簡を見ると「同志」と記している。それは、年長で教える立場にある自分と、弟子たちを対等にとらえ、遇していることを意味している。同じ一個の人間として対していくときに、心の扉が大きく開け放たれ、信頼が醸成されたのである。
また彼には、私利私欲、名聞名利の心がなかった。新しい日本の夜明けを開くという目的に貫かれ、無私であり、無心であったことが、弟子たちの共感を呼んだのであろう。例えば、論争し、相手の意見や説が正しいとわかれば、積極的にそれを取り入れた。その向上と無私の心こそ、彼の触発力の源泉である。
彼が獄中から高杉晋作にあてた手紙の中に、有名な「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」とある。
死ぬことによってその名が不朽となると思えば、そこで戦い死んでいきなさい。永遠にその名が歴史に残るであろう。また生きなければ大業を成就できないと自覚したならば、生きて生きて生き抜け、というのである。そこに弟子たちは、生き方の範を見いだし、強い、胸奥からの共感を覚えたにちがいない。
師弟の道
松陰の遺書『留魂録』に次のような一文がある。
「私は三十にして実をつけ、この世を去る。それが単なるモミガラなのか、成熟した米粒であるかはわからないが、同志が私の微衷を受け継いでくれるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい」
そして、江戸伝間町の牢屋敷で、刑場の露と消えた。彼の死は、自らの生死観を完結させるものであり、生の意味を、死の意味を、自らが犠牲となって示すものであったといえる。
松陰の理不尽な刑死を知った門下生の憤恨がいかに筆舌に尽くせないものであったかは、察するにあまりある。
それを契機に、やがて彼の門下生は、松陰の遺志を継いで立ち上がり、明治維新へと時代を大きく回転させていったことは、周知の通りである。
維新の断行―それは死を決意してこそなせる業であった。事実、その途上で、高杉は倒れ、久坂も逝った。だが、維新は成った。ひとつの日本の新しい夜明けが訪れたことは間違いない。
今回は少し難しい話しとなりました。我々も多くを松陰から学ばなければなりません。皆さんも何か少しでも松陰から学んでいただければ幸いです。次の時代を背負うのは間違いなく皆さんだからです。