[2018年4月21日]
今日も現代文の授業をしたのだが,ウチの塾の現代文の授業は地質学と同じ考え方だと思った。
どういうことか説明しよう。
昔,金や銀が日本各地で産出していた。
それが山のどこで見つかるか,「山師」と言われる人が探し当てていたのだ。
今では「山師」は「詐欺師」と同義になっているが,そんな見つかるかどうか怪しい仕事で人をだますということが横行たのだろう。
当時の山師は,とりあえず鉱山を探し当てたら勝ち。
たまたま見つかることもあっただろう。
経験を積むと,こういう雰囲気のところに見つかるといったこともあるだろう。
たしかに,地質と植生は関係するので,植物の雰囲気で鉱山が見つかることもありそうだ。
まったくの素人が山に入って,うろうろしているうちに鉱山を見つけることも十分にある。
しかし,それもたまたま。
頑張って歩けば見つかることはあるのだ。
ほとんどの生徒が現代文の問題を解くのは,素人の山歩きと似ている。
たまたま見つかったら勝ち。
見つからないときは負け。
かと言って,見つける方法を知らないので,ひたすら時間いっぱいまで歩くのみ。
ところが,ウチの塾の現代文では,探す方法論が確立しているので,素人がてきとうに探すのと違って,確実性がはるかに高い。
地質学では地層の走向と傾斜を測定すれば,その地層が隣の山のどのあたりに再び露出するかがわかるのだ。
だから,その付近を探せば,同じ鉱物の含まれている地層が見つかる可能性が高い。
無駄に歩き回る必要がないのである。
現代文の解答も,どのあたりに答えが埋まっているかがわかれば,その付近を重点的に読めば答えが見つかる。
地質学の手法を知っている人と同様,現代文の手法を知っているのと知らないのでは,正解にたどり着く可能性が天と地ほど違ってくる。
そういう意味で,ウチの塾の現代文解法は地質学的な解法と言って過言ではないと思った次第。
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