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尾崎塾
富田教室

[2011年1月17日]

あの日を忘れない

あの日の前日,茨木市の試合の決勝で負けた。
大学の後輩との試合だったが,ファイナルまでもつれた。
私のカットサーブにてこずっていたし,順当にいけば勝てたはず。
そのゲームでなんと,堀切のスマッシュがバタローの差し出した面に当たって返されてしまった。(堀切は私の前衛,バタローは相手の前衛)
あり得ないことではない。
わかってはいたが,現実にそういう風になるとそのまま流れは向こうへ。
準優勝だった。
これは何かの暗示だったのか。

いつもよりも深く眠っていた翌朝未明,それは起こった。
かなり大きかった。
いきなり停電。
震度5くらい。
南海地震ではなさそうだ。
直下型だな。
震源は?
中央構造線か?

電気がついたので,TVを見た。
どうやら神戸の方らしい。
なるほど。

あり得ないことではない。
わかってはいたが,現実にそういう風になると放心状態だ。

ちょうどその10年前,私は神戸大学の卒論で活断層の研究をしていた。勉強すればするほど「やばいんじゃないの???」と思えてきた。活断層は日本中に無数にある。一般の人はその認識が低すぎる。全く地震なんて来ないと思っている。それは危険だ。

大学を出て教員になり,機会があれば生徒にはその危険性を話してきた。そして地震が起こることを知った生徒がやがて社会に多くなってくると,それが安全な社会につながると思っていた。

間に合わなかった。
最初の感想。
せめて,私が研究していた神戸大学の地元,神戸市の防災について,神戸大学は何かできなかったのか?
地震が起こるというと住民が不安になってパニックになるとか,危険なところには人が集まらないので経済的に不利だとかいろいろ理由をつけて,神戸市は市民に地震の危険性を知らせてこなかった。
敢えて言うと,政策が大勢の人を殺してしまった。
それを大学が科学を根拠に指導できなかったのか。
残念でならなかった。

数日経って大学から電話がかかってきた。
地震の調査依頼だった。
まだ当時は活断層の研究者なんて少なかった。
なのでちょくちょく大学に出入りしていた私に依頼が来たのだ。
この地震についてしっかり記録して後世に残すことは重要ではある。とりあえずお受けした。

調査で被災地を歩いた。
それはひどいものだった。
家がずーーーっと潰れている。
img1 学生の頃によく行き来した町が・・・そして何千人もの方が亡くなった。
調査に入って一層残念になった。
おそらく家の下敷きになった方のほとんどは地震なんて来ないと思っていたのだろう。これだけ古い木造建築なら,確かに進度6で倒壊する。そんな揺れが来ると思っていたら,怖くて住めないはずである。政策もそうだが,それまでに多くの方が受けてきた教育の中で地震については学ばなかったのだろうか。ひょっとして,これは教育の責任もあるのではないか。そう考えると増々不安になった。現状の高校理科で地学教育があまり行われていない。中学で少しやるが,高校では一切やらないので地震なんて外国で大勢死ぬくらいにしか思っていない大人を量産している。このままでは,次の地震でも大勢死んでしまう。学校教育でしっかりと防災教育をやれば,多くの正しい認識を持った大人をつくることができ,それが安全な社会につながる。私一人が教える生徒の数はたかがしれている。もっと広くそういう活動をしなければならないと,その時に強く思った。

調査結果は日本地質学会で発表し,大阪の地学教育研究会ではその教育災とでも呼べる内実を講演させていただいた。しかし,それっきり,年々震災の記憶は風化していく。

今,大手予備校で地学の講師をしているが,真の目的は防災教育なのである。センター試験向けの地学なので生徒の多くは国立大を目指す文系諸君だ。中には東大や京大をめざす者も多い。そんな彼らに地震の正しいとらえ方を教え,世の中の中枢に入ってもらって防災のしくみをつくってもらえたら最高だ。

1995年1月17日

あの日を忘れてはいけない。






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