[2011年5月21日]
秋田県の市立中学校で、生徒会が震災の義援金を集めたところ、担任が期限内に納めなかった生徒名を黒板に掲示していたとのこと。
いろんな学校で義援金や支援の活動をしているようだ。
上記の記事を見ると,その担任の配慮が足りなかったという1点に視線が向く。たしかに,その担任は世の中が見えていないので教師失格なのだが,そういう活動自体を生徒会がすることの是非を考えるべきなのだ。
本当に義援金というものが必要なのか。
単純な話,被災したらお金をもらえるということ。
芸能人とか有名人が億円単位で義援金を出している。
生徒会が10万円程度集めたところで,わずかな額でしかない。
こういう義援金集めは,その学校で何かいいことをした「気分」を味わうだけ=自己満足の世界だ。
その中で,黒板に名前を書かれて傷つく生徒がいたのでは,プラスマイナスどちらが多いかわからない。
井戸を掘る話
どこかできれいな水の飲めない貧しい村がある。
それを見て裕福な国の人が水や食料やお菓子を与えたりしてはダメなのだ。
村の人はやがてそれをあてにして働かなくなるのだ。
裕福な国の人が来られなくなった途端に,きれいな水に慣れた村民はお腹をこわし,勤労意欲もなく,滅びていく。
だから,援助するなら井戸を掘って恒常的にきれいな水を得られるようにしてあげるとか,安定して食料が得られるような仕組み,教育を与えないと逆にひどい状況になる。
震災も同じこと。
今回の震災で家が流されても,仮設住宅で生きていられる。食料も支給される。おまけに義援金ももらえる。おそらく,先ほど例にあげた貧しい村の人よりも豊かな毎日を送っておられる。
これを和歌山の沿岸部の人が見ている。
すると,ウチの村に津波が来て家が流されても皆が「なんとかしてくれる」から大丈夫と考える。自治体も日本や世界中から支援してもらえるので,自前で対策をしておかなくても「なんとかしてもらえる」と考える。
この「なんとかしてもらえる」という安易な考えが被害を大きくする。
逆にもうどうしようもなく悲惨で,なんともならない状況になるとわかっていたら,もっと本気で防災について取り組むし,被害も少なくなる。
はじめの話。
学校で義援金を送ることがはたして教育上好ましいことなのか。
自分の意に沿わないことでも強要されてしぶしぶ払わないといけないお金もあるという社会勉強なのか。
本当に大切なことを教えるのが学校であって欲しい。
にほんブログ村