[2012年7月7日]
まず,
いじめた側にも人権…「自殺練習」真偽確認せず
とは読売の見出しだが,これを見てどう思うか。
教育委員会が「いじめた側に人権がある」と言ったのを批判しているようにしか読めない。
もし,そうなら逆に大問題だろう。
読売は「いじめた側には人権はないのに,それがあるかのように教育委員会が理由に使った」と主張していることになる。
これはとんでもない考え方だし,そういう世間の風潮がいじめの本質をさらに見えなくする。
一つ,区別しておいていいことがある。たとえば,異常な殺人事件が近年散見されるが,その犯人(異常者とする)の人権云々と今回のいじめた側の生徒達は次元が違うと認識すべきだ。
つまり,自分あるいは自分の子供が異常者になる可能性は極めて低い。一方,いじめる側にまわってしまう確率ははるかに高い点をよく考えて欲しい。本当に誰だって加害者側になってしまうのだ。
例えると,徴兵制のある国の人が戦争に行って敵国の誰かを殺してしまう可能性と同じかそれ以上に可能性が高い。その人は徴兵を拒めない。もし拒んだらそれなりにヤバいことになる。仕方なく軍隊に入る。たまたま戦争が起こり,戦場に行ったら自分がやらないとやられる。
同じ構図だ。私立の選択肢はあるが,普通は公立中学に行く。その中学の自分のクラスでたまたまいじめが発生する可能性は戦争が勃発する可能性よりかなり高いと思われる。いじめる側はいじめ続けないといじめられる側になるかもしれない。だんだんエスカレートしていってもそれを止めるブレーキ役をすればいじめられる側になる可能性がある。だからみんながやっているいじめを拒むことはできない。自分や自分の子供がその状況ならきっと加害者側になっておかしくない。一方で,いじめられる側になる可能性も,戦争で爆撃されて死ぬ可能性より高い確率であるのだ。
さて,戦争に行って誰かを爆撃などして殺した人に人権はないのだろうか。殺された敵国の人からするとそう思う心情もわからないではないが,普通はその人の個人の意思で動いているわけでもなく,異常者なわけでもなく,戦争という状況下では仕方のないことだと認識できよう。原爆を投下したその人がすべて悪いという認識を日本人は持っているかというとそうではないだろう。戦争が悪かったのである。だから二度と戦争の起こらないような世の中を皆で努力してつくってきて現在に至っている。
いじめは戦争なのだ。
いじめのない世の中(学校に限らない)をつくるように皆で努力を続けないといけないのだ。
しかし,それは一朝一夕でできるような問題ではない。今回の件も,当事者の教員や教育委員会や加害者をいくら糾弾し,批判し,人権がないような報道をしてもいじめがなくなるわけではない。へたに揚げ足取りの報道を繰り返すことで,変な責任を取りたくない人が出てくるからさらに本質が埋もれてしまうのだ。
加害者は異常者と同様に(いや,その人たちにも人権があるとされているのに)人権がないとまで報道され,自分や家族を守るためにいじめの構造を告白することなく黙秘するようになる。携帯の証拠も消してしまうだろう。調査に協力しなくなるだろう。ますますいじめが見えなくなっていく。
いじめは誰だって当事者になる。常に発生する可能性がある。だから,あったとしてもそれがために教師や当事者を吊し上げるようなことをしてはいけないのだ。ひどいことになる前に,加害側にも十分な配慮をし(多くの場合,加害側の心のバランスがくずれているからいじめが起こる),メンタルな面で健全を保てるように学校,あるいは社会全体で常に取り組み続けないといけない。
日本人は,戦争は起こらないものだと完全に油断している。平和ボケというやつだ。これが実はいじめにつながっているともいえる。平和を維持するために,自衛隊の方や政治家,官僚が日夜頑張っていることを忘れている。マスコミはそういう方を批判して飯を食っている。だから,ある意味マスコミは平和ボケの象徴のようなものだ。そこで冒頭のような報道につながる。大きな新聞社がこんな報道していいのか。いじめの本質を見ようとせず,教育委員会や教員を批判する格好のネタだという視点で,加害生徒の人権を無視するのが当然のような報道だ。
改めて日本のマスコミの低能さを残念に思う。
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