[2012年8月4日]
塾の周囲に自転車を置けるのだが,それとは別に向かいの駐車場を駐輪場として借りている。
自転車が道路にはみ出して通行の邪魔になるのが嫌だからだ。
駅前の塾はひどいもので,歩道が塾生の自転車であふれている。
通行するのに邪魔なのだ。
世間に迷惑をかけて営業するのはいかがなものかと思う。
それで,ウチの塾では極力そういうことがないように指導しているが,昨日はその駐車場の枠からはみ出して止めたのが何台かあったので,駐車場を管理している電気屋さんが教えてくれた。
他にも隣の漢方薬屋さんもそういうことを教えてくださる。
近所の方もウチの塾には好感をもっているからこそ,そういうことを教えてくださるので,たいへんありがたいことではある。
さて,あろうことか,ウチの塾の自転車が駐車場の枠からはみ出ていたわけで,それだと他の車の出し入れに非常に迷惑になるのである。誰かに迷惑のかかる状態で塾をやっていても意味がないので,塾生全員に話をした。
単に枠からはみださないように話をしたのではない。
今,毎日何のために勉強しているのか,根幹にかかわる話なのだ。
まず,今朝の状態は迷惑がかかっていると認識してもらった。
で,最後に来た何人かがはみだして置いたわけだが,その最後の人が悪いのではないということ。
もちろん,先にとめてあった自転車を少しずつ動かして詰めればちゃんと置ける。しかし,そうまでする手間と時間を惜しんでしまった。この点はダメなのだが,その状態にしてしまった先着組にこそ考えて欲しかったのである。
はじめに到着した人はどこにでも余裕で置ける。2台目も3台目も楽勝だ。だからといって,そこで間隔をあけて置いてしまうと,10台目ではみだすのだ。
いつも何台くらいここに置いているかわかっているのだから,最初に来た人が後からくる人のことを考えて奥の方から詰めて置いていれば,最後に来た人も枠の中に置ける。
そういう最初の人になれるように,今の日々の勉強があるのだという話をしたのである。
要するに,それができるには最後の人がはみだして置くことが迷惑なことだと気づくこと。そして,それを防ぐのに自分ができることに気づくことが必要なのである。
学校の勉強なんてたいしたことはやっていない。
やっているのは「気づく力」を養っているだけなのだ。
自分の計算ミスに気づく。ケアレスミスに気づく。問題の意図することに気づく。こうやった方が覚えやすいと気づく。この解法よりほかの解法の方がいいと気づく,などなど,気づく力を鍛えているのが学校の勉強なのだ。
気づく力が学力そのものなのである。
その結果,どうなるか。
気づく力に長けた人が上位の大学に集まる。
下位の大学は気づけない人が集まる。
偏差値の高い大学は就職できて,低い大学は就職難だが,結局は気づく力があれば世の中の役に立つので就職できて,気づく力がないと役に立たない(むしろ迷惑をかける)から就職できないのはあたりまえ。
このあたりまえに気づくことすらできないと話にならない。
こういう話を言って聞かせた。
ウチの塾生がすばらしいのは,この話をしているときに,全員がちゃんと私の方を見て,背筋を伸ばして聞いていた点。
よく,学校で説教をされるときに,クラスで一人や二人は「俺は自転車で来てないからカンケーない」とばかりに,下を向いて内職するような奴がいるのだが,自転車で来てない生徒もちゃんと考えて聞いていた。そう,その話は全員に関係のある大切な話だとちゃんと気づいていたのである。
で,今朝は駐車場の枠にすべての自転車がちゃんと収まっていたのは言うまでもない。(←って,言ってるやん!)
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