[2013年1月17日]
あの日は茨木市のインドアソフトテニス大会の決勝で負けた翌朝だった。
それなりに疲れて爆睡していたので初期微動を感じることはなかったが,主要動は高槻の自宅にも半端なく襲ってきた。
とっさに隣に寝ていた子供をかばいつつ,大きく揺れる天井の蛍光灯とにらめっこしていた。
しばらくすると蛍光灯のナツメ球が消えた。
停電だ。
真っ暗な中,数十秒揺れていたが,やがて収まった。
1995年1月17日午前5時46分
日付と時刻は忘れようがない。
大学で地質学を専攻し,卒論のテーマに活断層の研究を選んだ私は,当時から地震に対する備えを意識していた。
だから,寝室は1階にあるものの,布団以外は何もない状態だった。
タンスが倒れてきてその下敷きになる危険性はなかったので,蛍光灯がはずれて落下するのだけをケアしていればよかったのだ。
台所の食器棚は観音開きではなかったし,家の家具はそれがたとえ釘一本であっても固定してあったので,震度5強くらいの揺れで皿1枚の被害もなかった。
かろうじて,高さ40cmの台上に固定はしていなかった2階のブラウン管TVがズルりと畳の床に落ちていたのが唯一揺れの大きさを示す程度であった。
これが,同じ高槻市茨木市付近に住んでいても,家でかなりの家具が転倒したり,食器が割れたりしたようだ。
その程度であれば買い直せばすむ。
深刻なのは,地震に対する無警戒は怪我をしたり命を落とすことに直結することだ。
後日多くの友人知人に聞いたが,当時家具を固定していたのは私だけだった。
かくいう私も,先ほど書いたが1階を寝室にしていた。
家の屋根は軽いスレートだし,直上の2階にもそんなに重量のあるものを置いてなかったので,倒壊してペシャンコになるキケン性が低いと判断していた。
結果的に,その判断は間違っていなかったとは思うが,木造建築であったので,柱がシロアリに食われていたりするとヤバかったかもしれない。
後日,神戸大学の調査に加わって被災地を歩くことになるが,犠牲者の大半はペシャンコになった家の1階で圧死しているのだ。
住吉〜御影付近の惨状
にほんブログ村
にほんブログ村