[2015年7月4日]
今日,進路相談に来た生徒との面談で,学校で三世一身の法を暗記させられたという話が出た。
いまどき,そういう意味不明の課題を出す先生も珍しいが,かといって,その先生のことを否定する気に全くならなかった。
むしろ,一見,無意味そうなそういう暗記させる教育こそ,実はとてもよい教育になっていると思っている。
我々の頃,たとえば春望や平家物語,あるいは奥の細道の冒頭部分は暗記したものだ。
枕草子もだし,百人一首も覚えた。
それに意味があったのかなかったのか。
そういう暗記をたくさんしたことが実は学力の基盤をつくっているのだ。
とにかく,意味不明の文言をひたすら覚える。
はじめはわけわからず,何度も何度も書いて覚える。
そうしているうちに,やはり覚えてくるのだ。
そこで,人間というのは,意味不明のことであっても,繰り返せば覚える動物なのだと悟ることができる。
しかも,どれくらい繰り返せば覚えられるかも体感できる。
そりゃ,何度も何度も繰り返す。
相当な量をやれば覚えられるということがわかってくるのだ。
この暗記を,意味がないからと最初っからやらないアホな奴は,自分がどれくらい繰り返さないと覚えられないかの実感がない。
だから,入試の前になっても一向に何も覚えていない状況になってしまう。
もしも,自分がどれくらい覚えるのに回数,時間がかかるかわかっていたら,もっと前から準備しているはずだろう。
暗記をちゃんとやっていない人は,結局,覚えるという能力が育たないのだ。
それから,覚えるという作業をやれば,記憶の「とおり」が良くなるという面がある。
普段全く使わない排水管を放置しておいて,いざ使おうとすると,何か詰まっていたり錆びていたりしてうまくとおらない。
そこにちょくちょく大量の水を流しておくと,スイスイととおるようになる。
記憶の道ができるのだ。
ゆとり教育の前,詰め込み教育が悪とされていた。
覚えることをたくさん詰め込んで,何も悪いことがないのに,世間がアホだからそれが悪だということになってゆとりバカを大量に生んだのは最近のことだ。
暗記できるものはどんどん暗記する。
そして,理解をそれに後でつけるのが正攻法の勉強法なのだ。
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