[2015年7月9日]
岩手県の中2生が自殺した問題。
テレビなどの取り上げ方を見ていると本質を見失うので指摘しておきたい。
特に最近はどうやらマスコミ関係の人もこのブログを読んでおられるようなので,ぜひともちゃんと取材して,本質的な部分に迫る報道をお願いしたい。
まず,担任とやりとりしていたノートの件。
その先生が書いておられる部分がどうのこうの批判するのはカンタンだが,ノートのやりとりをしていること自体がかなりきっちりと生徒の状況把握に努めているという点を見落としてはいけない。
そして,先生にいろいろと書いているわけだから,ある程度先生と生徒の信頼関係もできていたと見るべきだろう。
その担任の先生の落ち度を指摘するのは,この件の本質からはかけはなれているのだ。
さて,ではどうしてこのような事態に至ったか。
いじめが継続していたからである。
いじめをなくすには,その件が起こっている学校の教師全体がいじめを絶対に許さないという姿勢で常にいること。それしかないのだ。
その点が欠けていたから今回の件が起こってしまった。
すごく大切な前提なのに,それを避けて通っているからおかしなことになっている事実。
それは,「いじめられる原因はいじめられる子がつくっている」という事実だ。
それがいい,悪いは別の次元の話なので,混同しないでもらいたい。
カンタンに言うと,普通と違っているというのが原因になるのだ。
繰り返すが,いい悪いは別の話。
ハンサムすぎてもブサイクすぎても普通ではないということだ。
だから,いじめの対象となりやすい子かどうかは,見ていたらだいたいわかるのだ。
それを教師集団が敏感に気づくことが大切。
で,その子が何かされているのに少しでも気になった教師は,他の教師にそれを伝えるという習慣が重要だ。
「あの生徒,俺の授業でとなりの奴にチョッカイかけられてたから,君の授業でもそういうことがないか見といてね」
という声かけを,教師同士で互いにできるかどうか。
こういうのは,個人の先生ではなく,その学校あるいは市単位での現場の環境なのだ。
中学校の教員は市単位での異動がある。
どの学校も,そういう声かけをしないで,担任が抱え込むような体質だと,市の間で異動があってもダメ。
市の学校がどこもちゃんと声かけできる状態であれば,その先生もきっと他の先生の耳に入れるだろうし,他の先生もいじめる生徒の指導をできる。
そういう意味では,校長や教頭の責任は重い。
よくあるパターンで,校長が「いじめはなかった」と言っている時点で相当麻痺状態だ。
もしもその担任が他の先生に一切言ってなかったとしたら,それこそその雰囲気を作っている市全体の問題だし,その市を放置している県の問題である。
なので,今回,決して当該の担任に責任がいかないようにしつつ,現場の環境を構築すべきなのにできていなかった市教委のトップなり教育長なりが責任を取るべきなのだ。
トンマなマスコミが担任が悪いような報道をしないよう強く望む。
取材によると,担任の先生は他の先生の耳に入れていなかったらしいが,それを知っていたのに,いじめをやめさせられなかったということを,マスコミなり保護者なりがイロイロ言ってくるのを恐れて,教頭や校長が「報告がなかった」ことにしている可能性もある。もし,そうなら,その体質こそが次のいじめを生むので,徹底的に検証してその構造を暴き,風通しのよい環境に造り替えていくことが大切なのである。
テレビのアホバカコメンテーターの「いじめ110番を利用しよう」などという策は,全く意味がない。
事件は現場で起こっているのである。
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