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尾崎塾
富田教室

[2016年4月20日]

本当に合格したいのなら

先日,とある生徒が相談に来て,
「●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●。●●●●●●●●●●●●●●。」←ご本人様より削除要請がありましたので消します。
みたいな話だった。
ようするに,志望校は塾に伝えたのに,その大学の入試で出ないことをやらせるというのは,志望校がちゃんとこっちに伝わっていないのではないかと思ったようなのだ。

まったく呆れて,話をするのに困ったが,仕方ないので説明した。

そもそも,その考え方は,ウチの塾の受験に対する取り組み方,考え方と真逆なのだ。
漢字の読みが出ないと言っても,同音の漢字を選択する出題もあるし,読めない字は書けないだろうと思うし,漢字読めなきゃ文章も読めないし・・・

img2←ご本人様より画像の削除要請がありましたので消します。

出題の形として直接その形式をとっていないだけで,どうしてやらなくてよいという発想になるのか全く意味不明だ。
このレベルの内容で,つまり全くやって損はないというのが明らかな事例を,やって損なことをやらされていると認識しているようでは話にならない。

同じ国語でいうと,たとえば関関同立であっても漢文は入試で出題されない。
ところが,ウチの塾では関関同立志望の1年生とか2年生には,国語の教材の漢文のところまできっちりとやらせている。
なぜなら,漢文というのは国語の教養をつけるのに格好の題材だから。
国語力の深みを得るには,漢文をやって損なはずはない。
それどころか,後になって利いてくるアドバンテージになる。
これをやって,「漢文出ないんですけど」と言ってくる生徒がいたら,その生徒は結局は関関同立はあきらめてそれ以下のレベルなのだということになる。

要するに,学力というのは総合力なのだ。
総合力というのは,言い換えると教養があるかどうか。
したがって,漢文などはかなり直接影響のある題材であるから言うには及ばず,芸術や音楽,あるいはスポーツやら哲学やら,いろんなことに通じていることが学力のベースとなるのである。

そういう学力観のもと指導しているので,ウチの塾では,志望大学の出題形式にいちいち合わせたような指導は基本的にはしないのだ。

こう書くと,頭の悪い諸氏はこう言うに決まっている。
「じゃあ,この塾は他の塾へ行くよりも合格可能性が低くなるよね。最短距離で合格に導いてくれないのだから。」
そう思うのならぜひ他の塾へお移りください。
どうぞ,どうぞ。
それで,よその塾では「合格」という商品をお金を出せば売ってもらえるんでしょ?
そういう塾があれば,その方がいいですよ。


実際のところ,難関大になればなるほど,そういう出題形式に沿った勉強しかしてこない連中は合格できないのだ。

関西でまずまずレベルの高い関関同立だと受験生も多いので,どうしてもマークシート中心,記号選択中心の出題になってしまう。
大学側としては,本当はもっとちゃんと論述できる人に来てもらいたいのだ。
だから,ちゃんと論述できる人ならこう書くであろう内容を正解とした選択肢を用意して選ばせることになる。

英作文などがそうだ。
国公立大なら全部書かせるのだが,私立だとそうもいかない。
おのずと,「並べ替え」や「空所補充」という形式で出題することになる。
形式上,英作文は出題されないように見えて,実はちゃんと英作文できる人かどうかを選別する設問だったりするのだ。
だから,対策としては,ちゃんと英作文できるように演習して,そういう受験生になっておくことが完璧な対策となるのだ。
いくら並べ替えの練習をしても,英作文の力はつかない。
英作文が1からできる人は,並べ替えだと単語をヒントとして教えてもらっている分,カンタンに解けてしまうのだ。

このことが受験のすべてだ。
つまり,たとえば大学側は英作文がちゃんとできる人に来て欲しい。
だから,英作文がちゃんとできる人なら答えられる並べ替えを出題する。
一方,アホな受験生は,その大学は並べ替えを出題するから,並べ替え形式の勉強を山ほどやるのだ。
しかし,そもそもの作文能力がつかないと,いつまでたっても答が合わないということになる。
国語も同じ。ちゃんと論述できる人は選択肢をちゃんと選べる。

受験というのは,「大学側が求める能力を身に付ける」ことが肝心なのだ。

くり返しになるが,およそ学力というのは教養ベース。
難関大ほど,その教養があるかないかが合否にかかわってくる。
理由は,難関と言われる大学側が求める人材は「豊かな教養をベースにした高い学力を持つ受験生」だからだ。


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